法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『暁のヨナ』の段取り群像劇がすごくよい

段取りよりも飛躍を評価する考えをよく見かける昨今、先の見えすいた展開を地味に積み重ねる作品が、逆に個性を感じさせる。
http://gyao.yahoo.co.jp/p/00198/v08704/
目指すべき理想を複数キャラクターで分担して説教臭さを薄めるでなく、それぞれの利害のため複数キャラクターが知謀をめぐらしあうでもなく。
それぞれの立場でそれぞれの視野にもとづき行動し、さらに熱心や怠惰の違いも描けている。


たとえば第4話、王を暗殺した簒奪者スウォンのもとで、有力な部族長が集まって会議をする場面がある。裏取引でスウォンを新王に推す部族長がいるかと思えば、暗殺の冤罪をかけられて圧力を受ける部族長もいる。それだけでなく、会議のゆくすえに興味をもたない部族長もちゃんといる。全員が権謀術数をめぐらすのではなく、きちんと温度差があることでキャラクターの違いが生み出される。
あるいは第5話、父王イルを殺された主人公ヨナと、簒奪者の下で不満をかかえている追跡者テジュンが対峙する。テジュンは簒奪者を追いおとして王宮に戻ろうとヨナにもちかけるが、ヨナは世話になった村人をテジュンが襲ったことをなじる。あくまで王宮しか視野に入っていない貴族と、民も視野に入れている主人公。特に珍しくもない描写だが、こうした視野の違いを登場するたびに徹底することで、一貫性あるキャラクターとしてたちあがる。愚かさを批判しつつ、見くだすことはしてないから、失敗が描かれても見やすい。
もちろん名も無きキャラクターにも個別の考えで動いている。やはり第5話において、ヨナを生け捕りにするようテジュンに命じられていた部下が、ヨナへ毒矢をはなつ。護衛者ハクがヨナを守って毒矢を受けたが、テジュンは部下を批判する。ここは指示がいきとどかなかったという描写かと思った。しかし名も無き部下は、ハクならばヨナを守る「確信」があったと断言する。ハクというメインキャラクターの格を高めつつ、モブキャラクターがメインを賞賛するための踏み台では終わらない。「姫をねらえ」と大声で命じた描写を説明台詞で終わらせず、伏線として活用するという技巧も光る。
こうした群像劇は原作の良さが大きいだろうが、それをとりこぼさずアニメ化しているスタッフの力もあるはずだ。


また、原作は少女漫画で、週刊少年漫画のようにアクションだけで何話も使う余裕はないわけだが、その余白をアニメ化で補っているのがアニメ好きとして単純に嬉しい。
一対多で切りぬけるシチュエーションが多いところを、漫画らしく省略して不自然さを消す原作とは反対に、武侠映画のようなアニメーションで力強く描ききり、見せ場にまで昇華する。
第1話*1も良かったが、第6話では横山彰利がコンテを担当し、第5話からつづく追跡劇で圧倒的なアクションを見せた。

高速で動く武器は残像で作画し、槍の柄のしなりは複数の残像で表現。静止画ではわからないが、カメラの揺れや奥行きある動きまで作画していた。
おそらく作画は伊藤秀次。映画『ストレンヂア 無皇刃譚』の冒頭で、これと良く似た渓谷での一対多アクションを作画したアニメーターだ。

やたら味のあるモブの作画もいい。こういう微妙な表情を見せるから、同じ服装の部下でも違う人間なのだという印象が生まれる。