法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

ハイファンタジーに比べてローファンタジーに不満を感じることが時々ある、ごく個人的な理由

作品要素の全てが異世界でつくりあげられているのが「ハイファンタジー」で、地球人が異世界に行ったりと現実の要素がふくまれるのが「ローファンタジー」というカテゴライズがある。前者の代表が『指輪物語』、後者の代表が『ナルニア国物語』といったところ。
これはジャンル内ジャンルのようなものであって、どちらが上等とか下等とかいう評価とイコールではない。完全な異世界を構築する仕事量と、その異世界を読者に理解させる技巧とで前者を高評価する向きもあるが、設定の物量と作品の面白さがイコールで結ばれるわけではない。一般の読者にとっては、せいぜい好みの問題だ。


そう思っていたら、よくわからないエントリを見かけた。id:chaoran氏のブログだが、このエントリひとつしか今のところあがっていない。
なぜオタクにバカが増えたのか、という話 - chaoran’s diary

「オタク」がそういう事ができる脳みそを持った人たちだけの娯楽だった時代に流行ったのが宇宙や異世界に飛び出す話しだったんですよ。(面倒なんでここではこの辺全部ひっくるめて「ハイファンタジー」と呼びます)
そんなハイファンタジーオタクたちが盛り上がって出来たオタク市場、これが一時期停滞します。顧客に対して市場が飽和したせいです。

「飛び出す」は読者や視聴者の視点のことと思えばいいが、いくら面倒でも「宇宙」に飛び出す物語をハイファンタジーと呼ぶべきではないだろう。技術面での描写や設定によっては、むしろ現実を強く意識させる要素になるはずだ。
SFは作品世界を現実と美しく接続するためにこそ、多くの設定を必要とするものだ。chaoran氏が主張したいのは、設定量が多そうに見える作品が昔は多かったということではないのか。
そう首をかしげていたら、直後に『新世紀エヴァンゲリオン』を「ローファンタジー」が浸透したきっかけのように主張していて驚いた。

そんな中でエヴァンゲリオンが出てきて、オタク界隈にそれまで子供向け扱いだった「ローファンタジー(現実世界をベースにしたファンタジー、とここではします)」とセカイ系がジャンルとして浸透します。(それまでにもそういう作品はあったでしょうが、エヴァブームによってこの手の創作の勢いがハイファンタジーを超え始めるに至りました。)

エヴァンゲリオンブームの何がすごいって、ハイファンタジーオタク以外の客層をガッと切り開いたことですね。

前述のように、作品要素の全てが異世界ならば『スレイヤーズ』シリーズもハイファンタジーに分類される。小説が出版されて人気になったのは1990年からだが、アニメ化がはじまったのは1995年と『新世紀エヴァンゲリオン』と同時期のこと。ちなみに、どちらも林原めぐみ主演のキングレコード作品であった。逆にローファンタジーに分類される『十二国記』は1991年から始まって人気を集めていた。
そもそも毎回のように巨大な敵が基地に攻めてきて、人工的な巨人に乗って守るという物語は、『マジンガーZ』あたりからつづいていた物語のフォーマットだ。特撮番組などの表現もとりいれながら発展し、最後に放り捨てたのが『新世紀エヴァンゲリオン』にあたる。現実に似た風景から導入するのは、ロボットアニメのひとつのセオリーだ。同じように防衛要素の強かった勇者シリーズが子供向けだというなら*1、より日常と接続した『機動警察パトレイバー』シリーズもブームを起こしていた。
新世紀エヴァンゲリオン』が「セカイ系」を生み出したという主張だけならばわからないではないが、現実要素をとりいれた作品が人気をとるきっかけであるかのような主張は理解しがたい。「セカイ系」にしても、『美少女戦士セーラームーン』のような参照先が先にブームとなっていた。
ある時期にハイファンタジーが目立ったのは事実だと思うが、それはTRPGを中核とした『ロードス島戦記』やコンピュータゲーム『ドラゴンクエスト』といった、異世界でプレイヤーが遊ぶゲームが人気だったためではないか。その人気が落ちついても、しばらくパロディとして参照されていた。そうしたメディアの関係を先に考察するべきであって、子供向けか大人向けかとは関係がないというのが、私の考えだ。


全体として事実関係に同意しがたいchaoran氏のエントリだが、下記の記述を読んでいて、ひとつ個人的な不満を思い出した。

ローファンタジーは「現実の拡張として理解が出来る」のでハイファンタジーに理解が及ばない客層を開拓し、セカイ系は作劇において登場人物の数を劇的に減らしました(セカイ系では局地戦の結果がそのまま世界の興亡なので、戦争をしても大人数を動かす必要が無い、つまり覚えやすいしわかりやすいのです)。

現実世界の人間が異世界に行くという形式は、なるほど異世界を読者が理解しやすくする手法のひとつと考えることはできるだろう。異世界の言葉でしか表現されないものを、どのように日本語で記述するかという課題を解決しうる。
「異世界ファンタジーに日本語や外来語が出てくる問題」の7つの解決法(※ステマ注意) - 魔王14歳の幸福な電波

日本人が異世界にワープしたり転生するタイプの作品だと、「主人公の一人称によって地の文を記述する」ことでかなり無理なく言語の問題をクリアできます。もちろん現地の人々は現地の言葉を喋っているはずですが、主人公本人にさえ理解できていれば「日本語で認識し直している」という体裁で日本語一人称の記述を理由づけることが可能でしょう。

そして私は、このような作品に対して不満をもつことがある。わかりやすさを目指すこと、それ自体は何の不満もない。
気にかかるのは、「ワープ」や「転生」のあつかいだ。作品では、異世界を舞台とした物語がつづいていく。主人公たちは異世界で困難にであったり楽しんだり、作者も主人公の直面することばかり力をそそぐ。しかし、異世界での出来事よりも大きな出来事が起きているではないか。
そう、主人公が「ワープ」や「転生」をした場合、そちらの起きた理由こそが異世界内での出来事より私は気にかかってしまう。異世界内にとどまる出来事より、そうした世界へと主人公を動かしたシステムは、はるかにスケールの大きな設定ではないか。なぜそれが物語の主軸にならないのか、という不満をおぼえてしまうのだ。


たとえば主人公が不幸な日々をおくっており、その代償として神様が幸福な転生を提示したとする。主人公ならば、そうした神様のふるまいに対して反発するべきではないかとすら感じる。その異世界で生きている人々を、たかだか主人公ひとりの不幸の代償として踏み台にさせることは身勝手だし、喜んで踏み台に乗る主人公に好感を持つことも難しい。
たとえ誰かの意思が介在していなくても、どこかからワープして来た世界ならば、またワープして去っていくかもしれないと感じてしまう。現実世界に戻りたいか戻りたくないか、どちらにしても主人公はワープした原因をさぐるべきではないか。主人公の力がおよばないかたちでワープしたとわかった上でも、個人的にはワープが物語の後々までからんできてほしいと思う。


そうした不満の少ないローファンタジーも当然ある。
たとえば1983年に放映され、日本における欧風ファンタジー映像作品の嚆矢となった『聖戦士ダンバイン』。複数の人間が異世界に行き、それぞれの立場で戦うわけだが、クライマックスで地上世界へと戻ってくる。いかにも現実とは異なる世界でつくられた巨大ロボットが、当時としては正確に表現された現実世界で戦う描写は、非常に新鮮で面白いものだった。
SFに分類されるが、1980年の大長編『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』も良い。『ナルニア国物語』やブリガドーン伝説をモチーフとして、ドラえもんの道具ですらとどかない遠宇宙と行き来する、ローファンタジー的な物語だ。冒頭の戦いが異世界と通じる原因であり、その戦いが物語の最終目標となる。ワープした原因は初期に特定され、なおかつワープできる期間の制約がドラマの中心にありつづける。現実との接続が、物語の中心に存在しつづける。
大長編といえば、1993年の『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』も狭義のローファンタジーとして楽しめる。現実では弱い主人公が異世界で大活躍できるという娯楽活劇で導入しつつ、やがて現実と異世界が浸食しあう物語となっていく。あえて弱い主人公を選んだ異世界側の思惑も描かれて、踏み台として終わらなかった。
どれも『新世紀エヴァンゲリオン』以前に子供向けとして発表された、人気のあったローファンタジー作品だ。


究極的には好みの問題かもしれないが、大きな設定が示されたら、それを冒頭で使いきることなく、活用しつづけてほしい。
現実の要素が多くふくまれるローファンタジーだからこそ、異世界だけで構築されたハイファンタジーには出せない面白味もあるはずだと思うから。

*1:実際には、『勇者特急マイトガイン』のように列車が文明の基礎をなす世界を構築した作品もあった。