法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』

『ゾンビ』のジョージ・A・ロメロ監督が2008年に手がけた、新ゾンビ3部作の2作目。
ゾンビの蔓延しはじめた世界で学生が逃げながら撮影し、インターネットや監視カメラの素材も利用して編集したという形式の、フェイクドキュメンタリー。


ゾンビ映画の巨匠にしては今一つという不評意見を見かけていたが、充分にホラー映画としても風刺映画としても楽しめた。
あまりロードムービーっぽさはないが、かわりにさまざまな場所でゾンビに襲われるところに力がはいっている。見通しの悪い空間と、全体を見せない撮影とで、どこから敵があらわれるかわからない。
もちろんロメロ作品らしくゾンビの動きは遅い。冒頭の学生によるホラー映画制作でも、死体は走らないと演技指導する台詞が出てくる。しかし素早いゾンビへの単なるアンチテーゼでは終わらない。『ゾンビ』のように肌が青く変色することすらなく、雑踏や景色にとけこんでしまうので、緊張しつづけなければならない独特の恐怖が生まれている。特に良かったのが、黒人集団がたてこもっている場所での出来事。心臓病死者が行方不明になったのだが、物影が多い薄暗がりということもあって、死体が歩いていても集団にまぎれてしまう。ゆっくり歩くため物音で見つけることもできない、その恐怖。
低予算なりにVFXを活用したゾンビ描写も見どころが多い。数は少ないが流血や肉体損壊はきちんとあったし、豪邸に隠されたゾンビなどには抒情性を感じた。


登場する黒人や障碍者の描写も悪くなかった。怪物化された悪人でないことはもちろん、記号化された善人でもない。ちゃんと独立した人格をもっていて、学生たちに協力したかと思えば、学生たちに都合よく動いてくれるわけではない。
そしてそうしたマイノリティは、明らかにゾンビとなぞらえてある。障碍者は言動がゾンビと区別しづらく、出くわした学生たちは殺そうとしてしまう。そもそも、この作品で最初にゾンビとなったのも移民とされている。
だからこそ、ドキュメンタリーで重要な情報を残したいという題目の裏返しとして、自身に危険がおよぶことを実感できないマジョリティの冷淡さがあることもわかってくる。出会う人々であれ、ゾンビであれ、別世界のマイノリティと感じているから被写体の心情へ無関心に撮影をつづけられるのだ。
その究極がドキュメンタリーをつくりはじめた学生ジェイソンだ。彼はゾンビが学生仲間を襲っている場面でも撮影を優先する。バッテリー残量が不足すれば充電のため一人だけ残ったりもする。女性一人が荷物をおろしている場面でも手伝わず、逃亡劇の一幕として撮影をおこなって、文句をいわれたりもする。ホラー映画として必要な素材が作中で撮影された理由の説明であると同時に、事件が起きている場所で撮影する報道の無神経さを客観的に感じさせる。


ただ、そのジェイソンの視点で最後まで見なければならないのは、いささか娯楽作品として欠点かもしれない。愚かすぎる登場人物が自滅したり、いつまでも生き残って仲間を苦しめるのはホラー映画でよくあるが、観客に同じ視点を強要しつづけるのは意図を理解しつつもストレスがたまる。そのストレスを大きく開放するような展開もなく、鬱屈したまま物語が終わってしまう。
やや序盤がだれているのも、ジェイソンをはじめとして学生たちが幼くて、撮影風景が面白くないからという問題が大きい。撮影風景が面白くなるような登場人物であれば展開が異なっていただろうから、ここは痛し痒しといったところか。
はっきり良くないのが、わずかにとどいた日本からの映像。女性の背後に日本らしい風景が映らないのは低予算だからしかたないとしても、死体を埋める前に頭を撃つよう注意する台詞には首をかしげるしかない。遺体を火葬できない時にいったん埋設することはあるが、日本では特殊な職業でなければ銃を持っていない。