法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ミュンヘン』

1972年、ミュンヘン五輪事件で死んだ十一人の報復として、イスラエルが計画した十一人の暗殺。
その計画を実行することになった平凡な主人公の混迷を描く。


史実にもとづいてスティーヴン・スピルバーグ監督が劇映画化した、2005年の作品。
話題になった後、そこそこ予備知識を持って鑑賞したのだが、かなり先入観とは印象が異なる内容だった。たとえば報復の連鎖を象徴する結末のツインタワーは、遠景にちらりと見えるだけで、事前情報を持っていなければ気づかなかったかもしれない。
冒頭の“黒い九月”の襲撃描写や、主人公の暗殺が失敗しかける緊迫感など、惨劇と滑稽が紙一重な演出なども良かったが、そうしたアクションの面白さは前半に集中している。


全体を通して印象深かったのは、主人公の基盤のなさだ。素人の主人公たち数人で暗殺するよう命じつつも、イスラエル政府は金銭的な支援くらいしかおこなわず、公式に助けることはできないと明言し、たよりにならない。
やがて情報屋と出会うことで暗殺が実行できるようになる。しかし暗殺対象は犠牲者数と合わせただけで、“黒い九月”の実行犯すら対象外であり、報復として意味があるかどうかもわからない。主人公が見つけた暗殺対象は、その地域社会で穏健に暮らしている者ばかりだった。
しかも暗殺の失敗をきっかけにして、かろうじて信頼できていた情報屋までが、主人公の情報を流出させている敵なのか、それとも背後からイスラエルが支援している味方なのか、わからなくなっていく。
やがて主人公の仲間がひとりひとり脱落していくが、それは激しい戦いのためではない。暗殺を遂行するための確固とした基盤を欠落しているためだ。
誰を信じればいいのかわからないくらいなら、スパイ映画でよくあることだ。しかしそうした主人公は、たいてい経験や技能や思想といった、信じられる確固とした基盤をどこかに持っている。むしろ主人公のゆるぎなさを強調するために状況の混迷がある。


主人公やイスラエルと対立する視点が入るのは、後半で情報屋の手引きで隠れ家に行った時のこと。同じように手引きされていた各国各地域の武装勢力と出会い、対立しているはずのパレスチナ解放戦線と会話をかわしたりする。ここで暗殺の相対化がおこなわれ、“黒い九月”の背景をわずかながら主人公も理解する。
この映画は“黒い九月”の背景や事件の推移についての説明は少ない。あたかもイスラエルや国際社会への批判を弱めるためであるかのように。しかしそれも主人公の限られた視野と観客を重ねあわせるためだろう。
何のために、何を信用して、何を目指せばいいのか……ほとんど素人の集団が国外にほうりだされ、意味のわからない暗殺を実行していく。状況を俯瞰するドキュメンタリー的な劇映画というより、フィリップ・K・ディック作品のような不条理映画という印象が強く残った。