法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『英国王のスピーチ』

第二次世界大戦直前にイギリス国王になったジョージ6世と、その吃音を治療して生涯の友人となった言語療法士の、社会階級を超えたパートナー関係を描く。
トム・フーパー監督による、2010年のイギリス映画。2011年のアカデミー賞を総なめにした。


古いアカデミー賞作品のような、文芸ドラマといった作り。2回ほどの演説シーンを除いて、あまり大規模な歴史再現をおこなっていない。流れるようなカメラワークと美しいレイアウトは楽しめるが、ほとんど室内劇として終わる。
ナチスの脅威が増しつづけている時代背景は、あくまで主人公がスピーチを成功させなければならない動機でしかない。それよりも、どのように王家が時代によりそったかというところに焦点があたっている。


ゆえに男2人の友情がはぐくまれるドラマとしてはいい。トラウマを原因とする吃音を、優雅に滑稽に治療しながら、たがいの距離感をつかんでいく。トラウマを掘りおこしたりスピーチをうまくしなければならない過程で、主人公の立場や性格を自然に説明していく。
そしてジョージ6世として戴冠する直前の大聖堂において、言語療法士の隠していた真実が明かされ、社会階級の落差と対比から、主人公の人間観が変わるさまは劇的だ。その時はじめて言語療法士になった来歴が語られ、第一次世界大戦の痛みを想起させたところも、深く印象に残った。


一方で、社会に対して視野が広がるような展開はなかった。ナチスは存在感を増しつづける悪役でしかないので、それにイギリスが対峙できるかどうかは、最終的に主人公の内面問題でしかなくなってしまう。
はっきりいって、最後の演説はつまらなかった。映画で悪役として描かれつづけていた巨悪について、戦うべき悪だと説明しただけ。世界に対する認識を変化させるような力がない。
これについては『ニューズウィーク』に掲載された脚本家批判が正しかったと思う。
『英国王のスピーチ』史実に異議あり!【後編】 | シネマ&ドラマ | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 『英国王のスピーチ』の脚本を手掛けたデービッド・サイドラーは、私がこの映画を「中傷」したと言う。だが、私が先の記事で指摘したのは以下の点だ。

1) 当時のイギリスでは、ヒトラー宥和策に対する反対運動が大きなうねりをみせていた。労働党自由党、さらには保守党の幹部議員まで巻き込んで、再軍備と反ヒトラー勢力の団結を掲げる超党派グループが生まれていた。しかしチャーチルは、親ナチスのデービッド王子に対する命懸けとも言える忠誠を貫くためにこれを離脱。グループの指導者たちはひどく落胆した。

2) 1938年、戦争回避を望むチェンバレンナチス・ドイツと結んだミュンヘン協定により、チェコスロバキアの一部がナチスに割譲された。ここでヒトラーに売り渡されたのはチェコの国民だけではない。スコダ社の軍需工場を中心とするヨーロッパ屈指の武器製造基地も、ヒトラーの手に渡ることになった。

3) 英国王と女王は世論に同調したり、従ったりはしなかった。それどころか、世論がチェンバレンの味方につくよう決定的な役割を果たした。ミュンヘンから帰国したチェンバレンは王室の使者に出迎えられ、バッキンガム宮殿に直行。チェンバレンは宮殿のバルコニーに国王夫妻と並んで立ち、民衆の歓声を受けた。協定書がまだ議会に提出されていないにも関わらずだ。このパフォーマンスは、メディアや国民に多大な影響を与えた。

この記事を読むと、むしろ史実にそったほうが映画としての面白味が増したのではないかと思える。
主人公たちが最初は国民の声を無視して、ナチスを軽視したり利用しようとしていれば、後の歴史を知っている観客を不安にさせ、むしろ作品に良い緊張感が生まれるだろう。さらに主人公が英国王につくことと同調するように、国民の危機意識を王家が共有していく展開になるから、よりクライマックスの演説が感動的になるはずだ。
父王に抑圧されていたトラウマの克服と、身分の低い言語療法士とはぐくまれた絆と、ナチスの脅威を認識して立ちむかう覚悟と、国民の声に耳をかたむけてから語りかける演説が、クライマックスで響きあう物語……そうすれば登場人物の変化と複数の対立構図が何層にも重なり、物語の奥行きが生まれたのではないか。