法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『アミスタッド』

1839年、大西洋を航行していたアミスタッド号において、黒人奴隷が反乱を起こした。やがてアミスタッド号は米国に流れつき、拘束された奴隷について司法闘争がおこなわれる。
スペインも加わって奴隷の所有権をめぐる裁判がはじまり、やがて奴隷制をめぐる米国内の対立、さらには司法と政治の衝突にまで論点が広がっていく。しばしば奴隷自身の意思を無視した戦いは、やがて元大統領まで巻きこんでいった。


スティーブン・スピルバーグ監督の、ドリームワークス移籍後1作目。2時間35分の尺で歴史的な事件を忠実に映像化した、1997年の米国映画。「アミスタッド」は「友情」という意味をもつ。
1993年の『シンドラーのリスト』で社会的に巨匠としての評価を固めたスピルバーグ監督が、1998年の『プライベート・ライアン』で戦争映画における戦闘演出を進化させる直前の、きわめて社会的な題材の作品でありながら、良し悪しどころか評価そのものを聞いたことがなかった。
視聴してみると、たしかに地味な作品ではある。冒頭でこそ、主人公の刺した剣先が床を貫通して船室の天井まで抜けたりと、さすがにアクション演出の見事なスピルバーグ監督らしい描写が見られるが、そうした反乱劇は短時間で終わる。1990年代の映画なので、現在の大作歴史映画と違って、当時の風景をVFXで再現することに力を入れているわけでもない。


しかし、しみじみ法廷劇として上手い。ほとんどの場面が室内での準備や裁判にしめられ、さまざまな思惑の登場人物がいりみだれるのに、わかりやすく情報をさばきながら興味を引きつづける。
さまざまな場面で奴隷と弁護士のディスコミュニケーション*1が笑いを生みつつ、会話できないこと自体が遠方で拉致されたという裁判上の傍証ともなる。アミスタッド号と黒人奴隷がどのように米国に流れついたかが、法廷劇として解くべき謎のひとつなのだ。
言葉の通じない描写は、弁護人と奴隷の意識の違いをも浮き彫りにする。この裁判を戦う若手弁護士は土地係争が専門であり、裁判について所有権の問題でしかないという。当時でも拉致されて人身売買された奴隷ならば違法だが、親が奴隷であれば生粋の奴隷として合法となるのだ。
立場の違いは奴隷同士にもある。「黒人奴隷」という言葉でひとくくりにされるが、個々人が異なる部族の異なる階層の出身なのだ。収容されている監獄において、奴隷同士が領土をわけて争ったりする。さらに反乱を主導した若者シンケを拉致して白人に売りわたしたのは黒人であることが回想され、裁判においてはシンケも奴隷を使役していたのではないかと検察側に問いただされる*2
奴隷解放を願うキリスト教徒がアメージンググレース*3を歌うが、黒人奴隷は誰も心を動かされないし、聖書を善意で押しつけられても迷惑がる。しかし押しつけられた聖書を読みながら、ひとりの奴隷が心を動かされていく。ここでも全員ではないという距離感があるから、遠くに見える船のマストが三本の十字架に見える比喩表現も、やりすぎと感じつつ見ていられる。


そうして奴隷と弁護士は勝利をつかむ。最初こそ奴隷自身の権利には興味のなかった若手弁護士が、奴隷と勝利をわかちあう姿がすがすがしい。映画がはじまってから1時間40分ほど、ここで終わってもいいくらい法廷劇としてまとまっている。
だが、物語は終わらない。奴隷の立場をめぐって、連邦最高裁に上告される。そこには南北戦争直前の時代らしく、国家を二分しないための政治判断がからんでいた。スペインのかけつづけていた圧力も司法判断に影響をあたえた。上告を知らされたシンケは怒り、法治主義の形骸化にあきれはてる。
一方で、序盤から行動していた奴隷解放論者のひとりが奴隷を受難者とみなし、敗訴を受けいれようとしたため、アフリカ系米国人の仲間から奴隷を観念的にしか見ていないと批判される。このくだりは、先述した三本の十字架について自戒する描写であろうし、この映画そのものが歴史を消費しかねないことの自戒でもあるのだろう。
そして裁判にはアダムス元大統領が弁護士としてつくことになった。元大統領による最高裁での演説は、前半でしっかり描いた問題意識をふまえて、米国の独立宣言を参照しながらも、より大きな射程で人権の重要性をうったえたものだ。こうして、より普遍的な人権尊重をうったえる物語へと、この物語は次元をあげた。


三部作において、人物や設定の説明に追われがちな一作目や、つみかさなった問題を収拾しようとして大味になる三作目より、二作目が最も面白いという映画のジンクスがある。この映画は一作品だが、あたかも三部作映画の一作目と二作目を合わせて鑑賞したかのような、問題意識の広がりと厚みが感じられた。
裁判が終わった後、歴史の一幕のように南北戦争奴隷貿易基地への攻撃が描かれる。スピルバーグ監督らしく特撮も用いているが、さほどのボリュームではない。その必要十分な描写にとどめる抑制で、演出家としての余裕を感じさせられた。
そして長い物語の結末において、シンケが失ったものの大きさが、静かに印象深く描かれる。シンケの出身地はシエラレオネ。解放奴隷の居住地としてアフリカで最も早く独立した国家のひとつであるが、21世紀初頭まで長く内戦に苦しんでいたことで知られている。

*1:ちなみにDVDで見たのだが、ディスコミュニケーションを表現するため複数の言語が使われており、吹き替えでもひとつの言語しか日本語にならない。ほとんど字幕と変わらなかったので、普段は吹き替え派なのだが、今回は字幕で視聴した。

*2:ちなみに史実でも、一説には解放後のシンケが奴隷貿易にかかわっていたという。根拠薄弱であるとして否定する見解もあるが、そうした学説を意識した描写でもあるのかもしれない。http://koma.econ.meisei-u.ac.jp/koji/_tRhEs5H.html

*3:奴隷制と密接な由来を持っている歌だが、特に作中での説明はされなかった。