法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「アジア的な優しさ」という表現は、はたしてクメール・ルージュを賞賛する言葉だったろうか

治安維持法は法律も運用も問題だったと考えるべきではないかと[twitter:@flurry]氏に問われて、大屋雄裕教授*1が下記ツイートのように答えていた。

のべられているような問題意識は大切だと思うものの、両方とも問題にすべきではないかという質問への回答としては奇妙だ*2


ところで、「アジア的な優しさ」という表現が一人歩きしている朝日新聞記事だが、はたして「麗々しい根拠法」に対する高評価だったろうか。
ポルポト派を”優しい”と表現した朝日新聞のトンデモ記事 ( アジア情勢 ) - 海鷲画報・電子版 - Yahoo!ブログ*3


 カンボジア解放勢力のブノンペン制圧は、武力解放のわりには、流血の惨がほとんどみられなかった。入城する解放軍兵士とロン・ノル政府軍兵士は手を取り合って抱擁。平穏のうちに行われたようだ。しかも、解放勢力の指導者がブノンペンの“裏切り者”たちに対し、「身の安全のために、早く逃げろと繰り返し忠告した。これを裏返せば「君たちが残っていると、われわれは逮捕、ひいては処刑も考慮しなければならない。それよりも目の前から消えてくれた方がいい」という意味であり、敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれているようにみえる。解放勢力指導者のこうした態度とカンボジア人が天性持っている楽天性を考えると、新生カンボジアは、いわば「明るい社会主義国」として、人々の期待にこたえるかもしれない。

この記事が書かれた時点では、ポル・ポト政権は始まっていなかった。少なくとも根拠法などに対してではなく、どちらかといえば現場に対する評価だ。
「アジア的な優しさ」は、クメール・ルージュ全体を賞賛したものではなく、あくまでプノンペン占領が平和裏におこなわれたことを評した言葉だった。武力解放したわりには流血が比較的に少なく、敵兵士に逃亡を呼びかけ、入城時に抱擁があったという逸話から、そう表現していたのだ。
大屋教授のいうような事例として適切だったか、いささか首をかしげる


もちろん、和田記事に批判されるべき問題がないわけではない。
たしかに当初は都市部で歓迎されたとしても、カンボジア内戦の全体をどれだけ知っていたか。そして、あくまで予測にしても楽天的にすぎたのではないか、アジアだけを特別視するのは裏返しの差別ではないか、といったことも問われてしかるべきだろう。
先日の大屋教授は、下記ツイートのように戦前の司法を「気骨」と賞賛していた。それと同じようなエピソード主義に満ちている、と和田記事を批判することも可能だ。

そうして一部のエピソードを全体に適用することの問題に気をつけながら読んでいくと、巷間の批判は記事の問題点を半分しかとらえていなかったのではないかと思える。「アジア的な優しさ」は、クメール・ルージュ社会主義を一方的に賞賛する表現ではなかった。

 カンボジアは内戦中も、秘密警察的な暗さがなかった。ロン・ノル政府側の要人も、警備にはさして関心を払っていなかった。政府主催の公式レセプションでも検問所はなく、招待状なしでも要人にやすやすと近づくことができた。これでよく事件が起きないものだと不思議に思ったが、南国的明るさとは暗殺とはそぐわないのかもしれない。
 ロン・ノル政府は七三年春、王族やその関係者を逮捕したことがあった。彼らの自宅には監視のため憲兵が派遣されたが、外来者を呼びとがめるわけでもなく、暇をもてあまして昼寝ばかりしていた。そして、しばらくするうち、憲兵はいつの間にか現れなくなった。逮捕された人たちは起訴もされず、罪状不明のまま釈放された。拘留中も差し入れ、面会自由。酒も飲み放題だったという。
 ハン・ツン・ハク首相(当時)の命を受けて、解放勢力側と接触をはかろうとした人物をたずねたときも、あまりに開放的なのでびっくりした。秘密的なにおいはまったくなく、こうままにどんどん資料を見せてくれた。その素朴さと明るさは類がない。

たしかに和田記者はクメール・ルージュを賞賛していた。しかし敵対していたロン・ノル政権に対しても、同じ記事で「南国的明るさ」や「素朴さと明るさ」という賞賛の言葉をかけていた。全体の文字数で見てもクメール・ルージュと同じくらい。むしろ具体的なエピソード数で比べるとロン・ノル政権が多い。
さらに記事の最後まで読むと、革命一般に粛清がつきものという認識のもと、希望的観測をのべている。「しかし」という接続詞から解釈すれば、和田記者は社会主義革命でも陰険な粛清はつきものだったと考えていた、と読むべきだ。

 カンボジア王国民族連合政府は自力で解放を達成した数少ない国の一つとなった。民族運動戦線(赤いクメール)を中心とする指導者たちは、徐々に社会主義の道を歩むであろう。しかし、カンボジア人の融通自在の行動様式からみて、革命の後につきものの陰険な粛清は起こらないのではあるまいか。
(和田前ブノンペン特派員)

和田記者は、カンボジア内戦において敵対した勢力双方に「アジア的な優しさ」を見いだしていたのであって、共産主義を賞賛するために「アジア」を持ち出したわけではないのだろう。


もちろんロン・ノル政権にしても、ベトナム系住民を迫害したり、共産主義排斥のため米軍へ自国への空爆を求めたりした。だからこそクメール・ルージュも伸張したのだし、その武力解放に希望をいだく声があったのだ。そして希望的観測がなされたポル・ポト政権も虐殺を起こし、現在も裁判が続けられている。
むしろ和田記事は、クメール・ルージュ賞賛という一般評価にとどまらない問題があったのではないか。プノンペン特派員であったのに、いやだからこそ取材した範囲の「素朴」なふるまいばかり印象に残って、異国への幻想ばかりいだいて、実体を見ることができなかったのではないか。
オリエンタリズムに満ちた高評価や、革命の熱気にあおられた楽天性は、現在の報道にも少なからず見られる問題だ。ポル・ポト政権が倒れた今でも、遠い昔の出来事ではないし、おそらく他人事でもない。
「アラブの春」は今どうなっているのか?――「自由の創設」の道のりを辿る / 池内恵 / イスラーム政治思想史、中東地域研究 | SYNODOS -シノドス-

*1:ツイッターアカウントは[twitter:@takehiroohya]。

*2:先にhttps://twitter.com/takehiroohya/status/412113112821559296で大屋教授が「昭16までは権力への歯止めとして機能していたのですね、あれでも。これを踏まえ、《どこが危険の中心だったか》という問題を無視してシステムの一部をmonsterizeすることは、やはり賢明ではないでしょう。」とツイートしているが、もともとシステムの一部だけ焦点化して「結構レア」「インパクトは社会内部で片寄っていた」と主張したのが大屋教授自身だということを忘れているのだろうか。http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20131209/1386521040

*3:エントリにはられた画像を参考に、文章の改行や記号を修正した。エントリで「ハン・ツク・ハク首相」と誤転載された部分も訂正した。