法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

暗殺された時の伊藤博文は、韓国併合反対派ではなかった

韓国における安重根顕彰の動きと、それに対する日本政府の反発、それに対する反発が報じられている。
http://www.asahi.com/articles/TKY201311190392.html

 菅氏は19日午前の会見で、中国・ハルビン駅で安重根伊藤博文を暗殺した現場を示す碑を設置する動きについて「我が国は安重根を犯罪者と韓国政府に伝えている。このような動きは日韓関係のためにはならない」と強い不快感を示した。これに対し、趙氏は同日の定例会見で「日本の帝国主義時代に伊藤博文がどんな人物だったのかを振り返れば、官房長官発言はありえない」と指摘。「安重根義士は我が国の独立と東洋の平和のために命を捧げた」と強調した。

これに対しては、その時々の司法が認定する「犯罪者」と、「英雄」という評価は基準が異なるという話でしかない。
それとも、独裁国家で犯罪者とみなされた活動家や、宗主国に犯罪者とみなされた独立運動家は、それだけで英雄と呼ばれる資格を失うのだろうか。


歴史を見れば、植民地化に非暴力で抵抗しながら弾圧されたマハトマ・ガンジーや、欧米と対立していたことで日本に協力したチャンドラ・ボースはどうなるのか。
日本にしても、たとえば赤穂浪士の討ち入りなど、『忠臣蔵』という物語に美化され、近年まで何度となく映像化されている。そもそも伊藤博文からして幕末の維新志士として暗殺をおこなっていた。それを鎮圧する側だった新撰組らも物語化されているが、安重根と違って圧制に対する抵抗運動ですらなかった。
伊藤博文はテロリスト - 法華狼の日記
逆に安重根に対してすら、当時の日本でも賞賛したり同情する評価が存在していた。石川啄木の詩にも残されている。
石川啄木 呼子と口笛

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――
しかして、そは真面目(まじめ)にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

むろんテロリストでなくても、個人を英雄視することそのものに危険性があり、その注意は安重根に対しても向けられるべきではある。英雄視が生まれた理由が何であれ、英雄本人すら望まない方向に利用されることは珍しくない。


さて、こうした日韓の動きに対して、池田信夫氏が韓国を批判していた。
テロリストを英雄に仕立てる韓国の幼児的ナショナリズム | 池田信夫 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
歴史学にくわしいわけでもない経済学者に依頼し、このような文章を掲載する『ニューズウィーク日本版』にも困ったものだ。
それでは細部の疑問点を指摘していこう。

 安重根という名前を知っている日本人はほとんどいないと思うが、韓国では「抗日闘争の英雄」である。

義務教育で学ぶ範囲に出てくる名前のはずだが。名前を忘れているという表現ならともかく、読者が知らないことを前提にしているのは馬鹿にしすぎではないだろうか。

テロリストを英雄として賞賛することも先進国では考えられないが、暗殺事件から100年以上たって記念碑を建てようと他国に提案する大統領も普通ではない。

先述したように、日本でも史実のテロリストを賞賛する物語は定着している。
ちなみに忠臣蔵はハリウッド映画化されたばかり。予告映像を見る限り、かなりのバカ映画になったようだ。

 この一つの原因は、韓国があおっている反日感情の歴史的根拠がないことにある。韓国は1910年の日韓併合から終戦までの時期を「日帝36年」として批判しているが、その時期に日本の朝鮮総督府が韓国人を虐待した記録はほとんどない。一時は「強制連行」や「従軍慰安婦」などを持ち出したが、それも事実と異なると判明したころから、日韓併合前の事件を持ち出すようになった。

朝鮮半島全体で大規模な抵抗と鎮圧があった三一独立運動は、1919年の出来事である。
3・1独立運動とは - コトバンク

日本の統治下にあった朝鮮各地で1919年3月1日に始まった全土的な抗日・独立運動。民衆が太極旗を振りつつ「独立万歳」と叫びながらデモ行進をしたことから、万歳事件とも呼ばれる。宗教指導者らにより事前に準備され、ソウル、平壌などで同時に起きた。ソウルでは中心部タプコル公園(旧パゴダ公園)に集まった民衆の前で、独立宣言が読み上げられデモ行進が始まった。約3カ月の間、全国で展開されたが、日本軍の弾圧によって、住民を礼拝堂に閉じこめ火を放つなどして約30人を虐殺した堤岩里事件などが起きた。一連の運動をめぐり死者7509人、負傷者1万5961人のほか、4万6948人が投獄された(朴殷植著「朝鮮独立運動の血史」)。

三一独立運動後に抵抗がなくなったことをもって韓国が併合を受け入れたという主張は少なくないが、1910年以降から韓国人を虐待した記録がほとんどないという主張は珍しい。
つづけた文章においては池田氏も、併合前には抗日運動があったことに言及しているのだが。

確かにこの時期には抗日運動があり、当時の大韓帝国が日本の支配に抵抗したことも事実だ。しかしもともとは、李氏朝鮮の改革派が近代化の先輩だった日本の支援を求めたのが始まりだ。これが日清戦争の原因となり、勝った日本は朝鮮半島に介入せざるをえなくなった。

その日本の支援とは、もしかして閔妃暗殺事件のことなのだろうか。池田氏はテロリストの英雄視を批判していたはずではなかったのか。
閔妃暗殺事件(びんひあんさつじけん)とは - コトバンク

乙未(いつび)の変とも。1895年朝鮮の李朝26代高宗(李太王)の妃である閔妃〔1851-1895〕が日本人に暗殺された事件。閔妃は大院君を引退させ,清国に従属する事大主義をとり,日本に対抗した(事大党参照)。

ちなみに主導したとされる日本人は日本国内で収監されたものの、最終的に全員が釈放されている。それとも池田氏は、当時の日本が犯罪者と認めなかったから問題ないとでもいうのだろうか。


そうして読み進めていくと、エントリタイトルで問題にした記述へ行き当たった。

 それは近代化を始めたばかりの日本にとっても重荷であり、伊藤は韓国併合には反対した。しかし国内の強硬派や軍は朝鮮を満州侵略への足がかりにしようとしたので、彼はみずから統監となった。文官が軍を統括するのは異例で、軍は天皇統帥権を理由にして反対したが、彼は軍を抑えるため、みずから現地の司令官を指揮したのだ。

伊藤博文韓国併合に反対していたという、安重根批判でよく使われる逸話である。
しかし池田氏が認めているとおり、伊藤博文が併合に反対した理由は利己的なものにすぎなかったし、はっきり反対しつづけたわけでもない。

 伊藤は直接支配には消極的で、「韓国八道より各十人の議員を選出し衆議院を組織すること」など、日本をモデルにした自治政府を考えていたが、日露戦争に勝った国内では対外的な膨張主義が強まり、最終的には彼も併合を了承した。しかし伊藤が暗殺されたため強硬派と慎重派のバランスが崩れ、抗日運動を弾圧して日韓併合が行なわれた。

現地人から議員を選ぶだけで充分な自治を認めたことにはならない。現地人の協力者を利用する間接統治は、植民地支配で珍しい話ではない。せめて朝鮮半島内での普通選挙を計画してからいうべきことだ。
何より、最終的に併合を了承したわけだから、暗殺されなくても日韓併合がおこなわれたことは確実だろう。池田氏は自分で不思議に思わなかったのだろうか。
そこで、おまけとして書かれた池田信夫ブログエントリを読むと、下記のように断言していた。
池田信夫 blog : 伊藤博文と日韓併合*1

日本でも「伊藤は日韓併合に反対した」とか「暗殺事件が併合の引き金になった」とかいう話があるが、それも間違いである。

現地軍の反発をまねき、日韓併合論が盛り上がったため、伊藤はハーグ密使事件をきっかけに大韓帝国の皇帝、高宗を退位させ、韓国の軍隊も解散して、1907年の第3次日韓協約で実質的に韓国を併合した。1910年の条約はそれを追認しただけだ。

伊藤はロシアと和平を結び、国境を画定した。これによって軍は朝鮮半島に釘付けにされ、満州に出て行くまでにあと20年かかった。

相手国の皇帝を退位させ、軍隊を解散させた時点で、強制的な併合の意思は明らかである。
つまるところ池田氏がいっているのは、伊藤博文が暗殺されなければ日本が満州まで戦線を拡大しなかったかもしれないという希望的観測のみ。線引きの内側に置かれた朝鮮半島が感謝するいわれはまったくない。


しかし『ニューズウィーク日本版』のつづきに戻ってみると、池田氏伊藤博文暗殺からはなれて、植民地支配そのものを擁護しようとする。

 韓国の側からみると、中国との関係で格下と考えていた日本に支配され、民族としての誇りは傷ついただろう。しかし客観的に見て、今の北朝鮮に近い状態で多数の餓死者が出ていた韓国が独立することは、財政的に不可能だった。日本が支配しなければ、ロシアが支配しただろう。

これは植民地支配において帝国主義者がよく使う理屈でしかない。池田氏は他国と比較して日本を擁護するつもりで、その実態として同質であることを自ら明らかにしている。
【超入門 チベット問題】チベット問題って何?

 90年代半ば以降、市場経済を採り入れた「改革開放」政策のもとでチベットは経済的には発展したようにみえます。確かに、食べるものに困らなくなったという点では「豊か」になったと言えるでしょう。

 しかし、チベットの文化やチベット人アイデンティティの破壊、人権の抑圧は、現在も着々と進んでいます。

こうした正当化は、日本と朝鮮半島の関係に限らない話だ。
植民地にしないと近代的な発展はしなかったと主張する人がいる。植民地にされた地域が独自に固有の発展をとげただろう可能性を示唆されると、仮定にもとづいているとか、発展できるための人員や資源がなかったとか反駁する。
しかし、仮定と反駁するならば、植民地を発展させたという主張にしても、植民地を手放さざるをえない歴史の流れを無視した御都合主義にすぎない。継続性を無視して、結果責任をとることを拒否しながら、植民地支配の何を正当化できるというのだろうか。


池田氏は結論部分で下記のように主張する。

このような歴史を歪曲する教育は、事実と照合すればすぐ嘘とわかる幼稚な政治的宣伝である。

伊藤博文個人が主導したわけではないから、暗殺したところで日韓併合の動きを止める意味がなかったこと自体は事実だろう。また、最も強硬な併合派ではなく、日韓併合に反対していた時期のある人物が暗殺されたことに歴史の皮肉を感じるのも理解はできる。
しかし、伊藤博文日韓併合の責任者であったことや、日本の植民地支配におけるさまざまな問題点は、日本の歴史学においても認められていることだ。池田氏が照合している事実とは、いったいどこの世界の話なのだろうか。

*1:引用時、文中のリンクを排した。