法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

大阪五輪招致失敗したから朝日新聞が岩波書店が憎い←なんでやねん

普通の「正論」ではなく、「関西から世に正論を問う」という意味で【正論・西論】というコラムがあり、そこで大阪五輪招致の思い出が語られていた。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120731/waf12073117010022-n1.htm

 ロンドン五輪が開幕した。選手のひたむきな表情を見ていると、各国の国旗、国歌がことのほか高貴に感じられる。オリンピックが国を背負った大会であることを改めて実感する。

冒頭からナショナリズム全開。参加している個々の国家は選手に国の威信を背負わそうとしているかもしれないが、オリンピックそのものは「人類の調和」や「人間の尊厳保持」や「平和な社会」の推進を根本原則として掲げている。
JOC - オリンピズム | オリンピック憲章*1

2. オリンピズムの目標は、スポーツを人類の調和のとれた発達に役立てることにあり、その目的は、人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある。

根本原則2の補足として4や6の項目もある。

4. スポーツを行うことは人権の一つである。すべての個人はいかなる種類の差別もなく、オリンピック精神によりスポーツを行う機会を与えられなければならず、それには、友情、連帯そしてフェアプレーの精神に基づく相互理解が求められる。

6 人権、宗教、政治、性別、その他の理由に基づく国や個人に対する差別はいかなる形であれオリンピック・ムーブメントに属する事とは相容れない。

むろん現実に相互理解が推進される場面ばかりではないことも事実だ。世界中の選手が参加して競うために、現実として国家や地域ごとに参加して、愛郷心を盛り上げている。
しかし個人を全体へ奉仕させることが目的ではない。そのことは憲章内でも明確に注意されている。あくまで主役は個々人としての選手という理念だ。

1. オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない。オリンピック競技大会では、各NOC によって選ばれ、IOC がその参加を認めた選手たちが一堂に会する。選手は関係IF の技術的な監督下で競う。

【西論】も、下記のようにナショナリズムの過剰を批判してはいる。だが、それはナショナリズム警戒が過剰なこともあると主張するための前振りだ。

 オリンピックはよくナショナリズムとの関連で語られる。4年前の北京は、中国の国威発揚が露骨にもくろまれた大会だった。「中国56民族」として紹介された子供たちの大半が漢民族だったのをはじめ、開会式は偽装だらけ。

 ところで、歴史にはナショナリズムが過剰に現れる場面があるだけではない。過剰に警戒する局面もある。その関連で思い出すのが、4年前の五輪に立候補していた大阪のことだ。

嫌悪している他国のナショナリズムを批判するだけならともかく、自国のナショナリズムは警戒が過剰だと主張することを合わせれば、一貫してナショナリズムを扇動しているだけでしかない。五輪憲章の理念にそっている主張とはいいがたい。

 北京、トロントイスタンブール、パリとともに開催地を争った大阪は、平成13(2001)年のIOC総会、1回目の投票で落選した。わずか6票、最下位の惨敗だった。財政上の懸念、交通渋滞の恐れなど、大阪へは厳しい評価が下されていた。

【西論】は、上記のように大阪招致が失敗した理由を正しく書いた後、「日本という国でオリンピックを開くことの意義が何も積極的にアピールされていない」ことが物足りないという。“日本で”ではなく「日本という国で」と表現されていることに注意したい。
そして岩波書店朝日新聞の言論から、ナショナリズム批判の動きをふりかえる。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120731/waf12073117010022-n2.htm

大阪五輪の招致運動が盛んになっていた1990年代の後半以降、ナショナリズムをめぐる議論が激化していた。教科書問題で戦後の自虐的な歴史観を見直そうとする保守運動に、左派は激しい攻撃を浴びせた。たとえばそのころの岩波書店の左系雑誌「世界」を何冊か開くと、右傾化、ネオナショナリズム歴史修正主義、などの用語がいくつも出てくる。
 オリンピックもこの流れと無縁ではいられなかった。シドニー五輪開催中の平成12(2000)年9月24日、朝日新聞は「ナショナリズム」と題した社説を載せている。金メダルを取った日本選手に送られる声援の話から、「居丈高な自己主張」となったナショナリズムの危うさへと議論は転じ、警戒心をあおる。言及されるのは自虐史観批判であり、あるいは国旗・国歌法の制定(平成11年)、日本に近づく中国船への強い反発などだ。

産経新聞がその「保守運動」に肩入れして、教科書出版にも手を貸したことは記述しなくていいのだろうか。
何より、異なる歴史観を「自虐的」と呼称することは「激しい攻撃」ではないのだろうか。少なくとも「保守運動」を自称するなら「右傾化」という評価は当然と覚悟するべきだろうし、ナショナリズムが悪ではないという立場なら「ネオナショナリズム」という言葉も望むところだろう。攻撃的な批判といえる言葉は「歴史修正主義」くらいではないか。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120731/waf12073117010022-n3.htm

 大阪五輪の理念の策定、その後の招致活動が偏った考えの下に行われていたなどと、短絡的にいうのではない。けれどもこうした国論の対立に無関心ではいられなかったはずである。行政中心の招致にありがちな無意識の政治回避からか、日本という国家を強く前面に出せないままで終わってしまった。地球市民の五輪が理念なら地球のどこでやってもよい。

どこでやってもいいからこそ「財政上の懸念、交通渋滞の恐れ」が解消できなければならなかった、といった反省は【西論】からうかがえない。
五輪招致失敗にからめて岩波書店朝日新聞を名指ししたが、「地球市民の五輪が理念なら地球のどこでやってもよい」という反対理由は、【西論】の勝手な考えでしかない。それが招致失敗の原因ではない以上、【西論】の主張は、招致運動にかこつけてナショナリズムを推進したいという意味しか持たない。真面目に招致運動を行っていた者には迷惑な話だろう。
この【西論】こそ、五輪憲章に反する「偏った考え」としか思えない。背後の政治的な駆け引きや国内の世論誘導を意図しているのだろうが、ナショナリズムを煽る主張をするほど大阪落選を建前から正当化していくことくらい理解してほしい。
そして、【西論】は「地球市民」が左派がたまに使う用語と主張した上で、わざわざ「暴力装置」を持ち出す。まさか、まだ引きずっているとは思わなかった。

 付け加えておけば、「地球市民」とは国家に批判的な左派がたまに使う用語だ。官房長官時代に自衛隊を「暴力装置」といった民主党某氏の政治理念にも、この言葉があった。

ちなみに、天皇を親として世界を家族と見なす「八紘一宇」という概念が戦前にとなえられ、それを戦後に右翼の笹川良一が「人類みな兄弟」といいかえたように、「地球市民」という言葉も左翼に限定される思想ではない。むしろ各国や各民族を安易に同質と見なすことを、現代の左翼は忌避している印象がある。


そして【西論】は新たな運動に期待をよせる。何度となく五輪憲章に反する言動をしている石原都知事主導の、東京五輪招致運動だ。

 2020年五輪に再び立候補している東京は、東日本大震災という国難からの日本の復活を招致理由の前面に出した。共感できる。国家への視点を避けた大阪の五輪招致は、平成7(1995)年の阪神・淡路大震災という国難を見据えることもなかった。

まるで大震災を五輪招致の踏み台としか思っていないかのようだ。
それに「国難」などと一国の問題として考えると、すでに長野五輪が途中で開催されている以上、大阪がその理由を使うこともできないはずだ。【西論】にとってはナショナリズムすら建前でしかなく、本当は自分のことしか考えていないことが透けて見える。

*1:引用文は憲章を和訳したPDFファイルから。引用時に改行を排した。http://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2011.pdf