2年前にはソチ五輪関係で暴言をはいた森喜朗氏だが*1、今度はリオデジャネイロ五輪関係で選手へ国歌斉唱を強要したという。
「国歌歌えない選手、日本代表じゃない」森喜朗氏 - 2016リオオリンピック:朝日新聞デジタル
「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」。東京・代々木の体育館で3日にあったリオデジャネイロ五輪の代表選手団の壮行会で、2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が来賓のあいさつでそう述べた。
たしかに記事に掲載された映像を見ると、「国歌をうたえないような選手は日本の代表ではない、私はそう申しあげたい」とまでいっている。
しかし五輪憲章を意識するなら「日本の代表」という位置づけは建前として間違っているわけだし*2、国歌を斉唱することは国民の義務でも五輪選手の条件でもない。
「どうしてみんなそろって国歌を歌わないのでしょうか」と問いかけ、サッカー女子の澤穂希さんや、ラグビーの五郎丸歩選手が君が代を歌い、その様子を見て国民が感動した、と述べた。「口をモゴモゴしているだけじゃなくて、声を大きく上げ、表彰台に立ったら、国歌を歌ってください」と選手団に呼びかけた。
ここについては、パラリンピック組織委員会の会長という立場で「口をモゴモゴしているだけじゃなく」といってしまうのか、という困惑もある。
場内ではみんなで声を合わせて歌う「斉唱」ではなく「国歌独唱」とアナウンスされ、ステージ上のモニターにも「国歌独唱」と表示されていた。
記事タイトルからは想像もできないオチ。おかげで、森喜朗氏のような人物にとって、国歌斉唱がカルト宗教の儀式でしかないことがよくわかる。
つまり信仰において何よりも優先されることであり、「独唱」と位置づけた式次第など無視していいのだ。壮行会において、何よりも重視され敬意をはらわれるべき対象が選手であるとは考えてもいないのだろう。
あと、このような人物がこのような立場でこのように演説したわけだから、今後どのように国歌を斉唱しようとも、その自発性を保証するものは何もない。
踏み絵として提示されたがゆえに、もはや内心をあらわすものではありえない。
もちろん、今回の森氏の演説がなくても、この国では昔からそうだったのだが。