感想を見て回ったが、なかなか下記のような観点が見つからなかった。少女がモチーフに利用されていることへ葛藤を見いだす意見は、他にも複数あると思っていたのだが。
『魔法少女まどか☆マギカ』雑多な感想 - 法華狼の日記
第11話において、魔法少女の願いが人類を発展させてきたという描写も面白かった。
この描写は、「魔法少女」という言葉の持つイメージが、過去から人類社会が少女に願いを仮託してきたことの極北であることをも示す。この提示が、ひるがえって『魔法少女まどか☆マギカ』という作品をふくめた、魔法少女物が根本に持つ御都合主義……なぜ少女の超越した力で救いを安易に行わせるのか……といったことへのエクスキューズとしての意味も持つ。
『魔法少女まどか☆マギカ』第11話において、聖女や魔女として歴史に名を残した女性達を思わせるイメージが、魔法少女が歴史を動かしてきた証拠として提示された。その1人であるジャンヌ・ダルクは、とりあえず自分自身の宗教的な情熱にもとづいて行動していたとはいえる。その死が悲劇と感じられても、自己決定を尊重するなら、安易な同情をするべきではない。
しかしジャンヌのような人物が生前から死後まで強者の政治に利用されていたことも事実だろう。その際に少女という属性が効果的な演出として用いられたことも確かだ。卑弥呼やクレオパトラも、その実情は現代からは断定できないとはいえ、ジャンヌ同様に少女という属性が政治的に利用された可能性は考慮すべきだろう*1。少女という属性に自陣営の正当性を裏づけさせて利用してきた歴史を第11話で描いた以上、同様に魔法少女へ自身の心情を投影し利用する問題が視聴者にも提示された。その問題は当然『魔法少女まどか☆マギカ』自身もふくまれる。
むろん、それはエクスキューズであったとしてもテーマではない。第11話で描かれた歴史上の人物がモデルとおぼしき魔法少女は、第12話で主人公の鹿目まどかが願ったため、魔女になる悲劇は回避された。救済が描かれたことによって、少女を利用した権力者の責任は物語上から消失した。ゆえに表面上は、最終的に少女を特別視して心情を投影する問題も免罪される。
しかしテーマとは違って、物語の結末で否定されたとしても、作者が意図していなくても、エクスキューズは機能する。いわば物語からの「そういう異論が存在しうることはわかっていますよ」という目くばせだからだ。そして「異論」の存在を物語から受け取った読者は、忘れることはできない。
もちろん私も意識的に細部を拾ったつもりではあった。先述したように読み取れるとしてもエクスキューズにすぎず、作品の中心的なテーマとはいいがたい。
それでも、makaronisan氏のように犠牲となった少女達の歴史描写を切り捨て、その上で作品を「少女至上主義」と位置づけた評を読むと、無邪気すぎないかと感じる。
少女の限界の中での最高を目指して。「魔法少女まどか☆マギカ」11・12話 その1 - たまごまごごはん
まあ分かりやすいっちゃ分かりやすいんです。君たちは家畜に感情を持つのかいと。育つためには感情のエネルギーと、犠牲がつきものだよと。あとムニャムニャ。このへん複雑な話が出てきますが、実はどうでもいい気がしたりします。
というのも、まどかがそれを受け入れるのか、耐え切れないかどうかの方が大事だからです。キュゥべえが言っていることが正しいかどうかはもうどうだっていいんですよ。それよりもまどかがこの重圧に耐えられない事のほうが重要なように描写されていきます。
少女至上主義だとぼくが思っている今作。
けれども、魔法少女達は完全には救われたわけじゃない。
Twitter / 吉田アミ(東京 ): 犠牲となったかわいそうな少女を神聖視しないで、誰か知らない誰か達が、救ってあげて。
少女が選んだ最高の選択。であると同時に、やっぱり悲しみと憎しみが繰り返す世界。
引用されているツイートを見ても、「犠牲となったかわいそうな少女」とくくった時点で神聖視している危険性に無自覚なよう感じられる。
「少女」にことさら意味を見いだすことへの疑問を延長すれば、第12話で描かれた救済自体にも問題が感じられてくる。
「魔法少女」の必然的な帰結が「魔女」というキュウべぇの主張を、鹿目は否定した。その後の、作品で描かれてきた設定を用いて主人公が自由を肯定する過程には、魔法少女としての契約を必要とした。そのため、自分自身の魔法をふくめた否定を願うことが成功しては、この展開上の無理がある。逆にいえば、願いの種類によっては自身が契約する以前の時間に移動できること等、最終回における主人公の願いが設定上可能という前振りはきちんと作品で示されていた。
しかし鹿目が唯物論を信奉していれば、人類の文明発展に「魔法」が不可欠だったという主張に対しても「これとは違う、もっとすごい空をきっと見るさ!」と全否定できたかもしれない。実際、キュウべぇは嘘をいわずに誤認識させるキャラクターだ。第11話での魔法少女がいなかった場合の人類についての台詞も「裸で洞穴に住んでいたんじゃないかな」と断言はしていない。魔法が不可欠という主張もまた可能性にすぎないとつっぱね、魔女も魔法も否定して、少女に限らない個々人全ての祈りを肯定するという結末でも、自由の肯定として成り立っただろう。
自由と可能性の称揚、そして自己犠牲の否定というテーマで比べると、同じMBS製作で同時期に最終回をむかえた『STAR DRIVER 輝きのタクト』は思い切りが良かった。
まず「銀河美少年」という「魔法少女」に似た言葉を示し、次に少女でも成人でも銀河美少年の力をふるえることを示し、最後に力をふるえることと正しさが無関係とはっきり示した。少女や少年という属性にたよらなかった。脚本を担当した榎戸洋司は、代表作の『少女革命ウテナ』『桜蘭高校ホスト部』等でも、いったん象徴化されて描かれたキャラクターを、設定された属性だけではとらえられない存在として描いていた。
自己犠牲という選択についても、美しく描こうとした瞬間、犠牲で生まれる全ての悲しみを打ち砕く主人公が、最高のアニメーションで描かれた。先に引用した楽天的な台詞でわかるとおり、意識的に前向きな世界観で主人公が生きていた。残酷さが現実には不可避という主張を、当然のように力強く否定した。
そのような作品が同時期に相応の人気を集めているのに、全く無視してアニメ作品で少女が特別な存在と見なす意見が散見されるのは悲しい。
アニメーションという観点でいうと、鹿目の救済はテーマだけでなく描写も率直にすぎて、過去の映像作品を想起させ、絵空事になった感もある。
より悪い選択肢は高い確率で悪いが、より良い選択肢は必ずしも良いことではない。絶対的な善を描くことが困難なため、たいていの宗教や物語において、地獄の迫真性に比べれば天国の描写は実感がわかないものだ。
そうした天国像の稚拙さ、想像された理想郷の貧困さを最も象徴していたのが、ちょうど同期で最終回を迎えたTVアニメ『Rio RainbowGate!』の「世界同時多発ラッキー」だ。得をした者がいれば必ず損をした者が出る賭博を題材にして、どのようにカジノ側の主人公が客を幸せにするかと思えば、損をしている存在を全く描かずに誤魔化した。しかも描写を重ねるごとにラッキーの規模が矮小になるというギャグで押し切ってしまった。ナンセンスギャグアニメの最終回でなければ許されない、突き抜けた描写だった。
救済を映像として描くことの困難さは、すぐれた映像作家ならば前提にしていると思う。設定上の意味があっても映像としては説得力が落ちたところが、TVアニメの経験が少ない脚本家が物語を主導した短所を象徴しているかもしれない。
救済描写については、歴史の引用ともからんで、他にも映像上の問題がある。具体的にはジャンヌと思しき少女が火刑される瞬間だ。
上記のカットを見ての通り、死を目前にしたと思われるジャンヌは、主人公が救済を呼びかけた後ではあるが、絶望の顔をしていない。史料によればジャンヌが絶望した時期もあるし、そのような瞬間をとらえてジャンヌの絶望を描いた古典の引用をしたりすれば、それなりに説得力がある絶望と対する救済を描けたかもしれない。しかし、現に明らかな絶望は描写されなかった。実在した人物に遠慮してか、ジャンヌに限らず歴史に記録された少女は、どれも絶望の顔では描かれなかった。絶望にとらわれて魔女となる瞬間とは思えないから、主人公によって救われる必要性も感じられない。
何よりも歴史上の人物は学問上でも虚構でも多くの蓄積があり、アニメ本編と同様の映像表現では歴史の重みに絵が負け、陳腐さを感じる。もし今後の歴史学で作品に採用された説とは異なる説が有力になれば、現実を引用することで担保された実在感すら消えてしまう。
そもそも、この物語における魔法少女は人間としての肉体は不死という設定で一貫しており、火刑されようとも死ぬことはない。歴史上の現実を想起させる悲劇と、魔法少女が魔女化するという作品独自で明白な虚構の悲劇が、映像上で明らかに混同されている。それもまた違和感を生む。魔法少女としてのジャンヌが精神的に絶望をおぼえた物語を視聴者が補完することもできるが、わざわざ勢いで誤魔化すように描写する必要性のある場面とは思いにくい。
あくまで作中現実として描かれるのは、世界中の名も無き少女達の、あるいは物語本編で魔女として主人公達の前にたちはだかった元魔法少女達のみに限定し、救う描写をするべきだったのではないか。歴史上の人物は、第11話でキュウべぇが語る伝聞をイメージカットで処理するにとどめるべきだった。少女に心情を仮託する問題へのエクスキューズという観点からも、実在の人物を救済する描写は入れるべきではない。エクスキューズでないならば、人間社会の権力によって最期をむかえた少女は魔法少女の設定と矛盾を生みかねず、第11話もふくめて引用するべきではなかった。
最後に長い余談となるが、キュゥべえは敵や作者の人形や視聴者の鏡像というより、ただの地の文に近い。誤認するように誘導する言葉づかいをしつつ、嘘はつかずに語っている言葉は事実という特徴は、まさに地の文で読者を誤誘導する叙述トリックそのものだ。
他にも、『魔法少女まどか☆マギカ』第12話の「ただの概念になり果ててしまった」という言葉づかいから、起きている出来事の評価を固定しようと地の文で制御する技法を思い出した。本当にキュウべぇが感情を持たないだけなら、たとえば「ただの概念になった」という淡々とした言葉づかいをしただろう。あえて「なり果ててしまった」という言葉づかいを選んだのは、それが作中人物にとって、ひいては視聴者にとって悲劇的な状況であることをわかりやすくするために他ならない。
感情を乗せていないようでいて、よく聞き返せば価値評価をさしはさみ、作中人物や視聴者の情動を動かす。ナレーションやダイアローグの少ない映像作品において、地の文的な意味を持つのは、こういう高所から全体をながめたキャラクターしかない。主人公と仲が良いキャラクターでは、キャラクターの主観によって認識がゆがんでいる可能性を見ていて意識してしまう。キャラクターが高い能力を持っていると評するには、味方が評価する描写より敵が評価する描写が効果的だ。
しかしキャラクターとしての完成度を優先するなら、キュウべぇが主人公の願いを承認した時の台詞は、ともすれば同情的な響きにすら聞こえる「成り果ててしまった」ではなく、たとえば「興味深い」であったり、「検討の価値があるね」であるべきだったろう。あたかもキュウべぇ自身にとって歓迎されざる願いであるかのような言葉づかいであるため、キュウべぇが願いを聞き入れる意味がわからないという感想を生んだ。
もうオレのSoul Gemは真っ黒である。 - 消毒しましょ!
自由契約なんだからQBは断りゃいーだろ。
「はーいお客さん、約款のここんところをもう一度良く見てねー。小さな字で書いてあるからちょっと読みにくかったかもしれないけど、そおゆうのは条項で除外されてるのよーん」などと生命保険の外交員みたいなこと言って拒否すりゃいーだろ。
キュウべぇは地球を飲み込むほど大きな魔女が生まれると予測していたし、それがうまくいかなかった後の世界においても相応のエネルギーを、つまり一定の利益を得ている*2。しかし、ことさら嫌悪感を生み出すキャラクターとして描写されてきたことで、誤解されやすい描写が多かったのは制作側のミスかもしれない。キュウべぇにとっては自己の利益追求が目的であって、魔法少女が不幸になることは手段にすぎない。魔法少女が不幸になることが目的化しているのは、あくまで制作者と視聴者だ。作中人物としてのキュウべぇにとっては、悲劇の対象が少女であることにも何の感情もわいていないだろう。