半分は時間つぶしのためで、千羽鶴とは全く無関係だったが。
しかし今回の災害でも千羽鶴を折って送ることを批判しようとするあまり、千羽鶴を折って祈る善意や、千羽鶴という風習そのものまで否定する意見が散見された。ハイチ大地震における騒動を思い出させる。
君は何も見ずに鶴を折れるか? - 法華狼の日記
ハイチ千羽鶴騒動を機会に、折り紙を学んでみよう - 法華狼の日記
今回もまた批判に首肯できる部分はあるが、いくつか反論しておきたい部分もある。
まず、祈りとして千羽鶴を折る行為そのものは否定できない。その労力を使って支援を行うべきという考えも一理はあるが、他人に強要できるものではない。物質的な支援が祈りにまさるという論理は、祈りに繋がる表現を全否定してしまう。
また、折り紙は特別な道具や燃料が不要で、緊急時の手すさびとして優れている。専用の折り紙用紙を使わなくても、不要な紙を使えばいい。
千羽鶴が平和祈念や病状回復に繋がった風習は、原爆症で入院していた佐々木禎子が、自らの延命を祈って折っていたことから始まるとされる。もちろん当時は折り紙用紙など入手できるはずもなく、手近な薬包紙を使っていた。
震災に襲われた地域でも、節電のためにTV等の娯楽を避けている地域でも、折り紙はいくつかの簡便な趣味の一つとして役立つ場合があるだろう。特に肯定する必要もないが、実際に現地へ送って邪魔になったという話でもない限りは否定する必要はないはずだ。