法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

本格的な返事は後日 その3

まずは前回*1の宿題。

>ちなみに、最終巻というか副読本のインタビューで、キラは悪だから最終的にああいう結末を迎えたと、原作者が明言していたはず。<ええ、それ正反対に記憶してるなあ。その辺はぼやかすように描いた、と主張していたように記憶してます。
NaokiTakahashi
2010-06-05 04:18:28

私も正確には記憶発言*8なので、インタビューは探しておく。前回の当該主張は保留ということで了解ねがいたい。

単行本第13巻、『DEATH NOTE HOW TO READ 13』で該当するらしき原作者インタビューは下記*2

結局、結末はYB倉庫まで持ち越しましたが、“最後は月が報いを受けて死ぬ”事だけは変えませんでした。

「報い」と表現していることから、悪事に対する応報として死ぬ結末が決まっていたと解釈して良いのではないか。
また、同じインタビューでキャラクターに対する善悪を評価している部分もある*3

強いてテーマをつけるのであれば“人間はいつか必ず死ぬし、死んだら生き返らない”だから生きている間は頑張りましょう…と。その一方で月の行いが正義か悪かなど、そういった善悪論はあまり重要だと思っていません。個人的には“月は凄い悪”“Lも若干悪”“総一郎だけ正義”…くらいの感覚でとらえています

他にも、まずLを犯罪行為を行っている月へ対抗する「正義」として出したこと*4、魅上を登場時点から悪と示すよう注意したことを語っている*5。原作者の内面では、各キャラクターの善悪ははっきりしていると考えていいだろう。
他方、上記インタビューにも見られるように、作品制作において善悪論やイデオロギー的な意図は全く考えていないことも明言している。原作者と作画担当の対談でも、「高尚なものじゃない」「読んで楽しんで欲しいだけ」「純粋なエンターテインメント」*6という意見で一致している。
つまり、制作者はキラを明らかな悪と描写しているが、それは正義が断罪するためではなく、わかりやすい娯楽を描くため単純な善悪の立場をキャラクターへわりふったといったところではないだろうか。id:NaokiTakahashi氏が「ぼやかすように描いた」と記憶しているのはキャラクターに対する評価ではなく、作品全体のテーマに対する制作者の立場ではないかと思う*7
このインタビューはむしろ、わかりやすく記号的な悪として設定されたキャラクターが正義と受容されていたことをうかがわせ、興味深いと感じる。


さて、「まおゆう」とからめつつミステリ話に返事を。
まとめよう、あつまろう - Togetter

>薄弱な根拠で視点人物が説得され*2、まともな反論もされず*3に物語が進行する御都合主義<というのが批判になるかどうかは文脈によるってことなんだよね。ミステリならそれは問題になる(いや最近は平気かも)だけど、例えばファンタジーだとどうかなあ。
NaokiTakahashi
2010-06-06 01:22:51

「まおゆう」のようなタイプのファンタジー*8の場合は、いわば名探偵の絶対性が疑われないライトなミステリに似ていると受け取った。
そこで娯楽として問題になるのは、啓蒙主義とされて問題視されていた状況にも通じるが、傍若無人なキャラクターが正義であるかのように描かれ、そう作品の内外で評されることへの違和感ではないだろうか。ミステリというジャンルでは、等身大として設定され作中でもそう扱われるキャラクターの、陰惨な殺人事件を前に嬉々として推理合戦をくりひろげる姿が典型的だ。ちょうど先述した『DEATH NOTE』原作者インタビューで名探偵Lが「若干悪」と評され、作品中でも強引さを批判し協力しないキャラクターが存在したことと比べてみればわかりやすい。よほどの名探偵でも、いやだからこそ、その非人間性に対して助手と衝突する描写は珍しくないと思う*9
もちろん「まおゆう」の魔王も作中でいくばくかの問題視はされ、「丘の向こう側」を望むという一種の利己主義として処理されているわけだが、その思想に共鳴した者が集まるばかりで途中で離反する主要キャラクターが全くいないのは、あの長さの物語においていちぢるしく現実味をそいでいた。これは物語展開が単調に感じられる一因でもあると思う。

現実の政治運動を新本格ミステリに思想的に連結しようとした笠井潔がなぜ清涼院/西尾ラインを認めたくなかったかというと、そこが決定的に違ったからで。俺には、ほっけさんはあの頃の笠井の世代に見えるんだよね。
NaokiTakahashi
2010-06-06 01:33:49

私自身の嗜好では、東京創元社あたりのパズルとストーリーを融合させつつキャラクターは薄い作品が好みだ。そういう傾向の作品ばかり読んでいると、意外性を作り出そうとしてシリーズ名探偵が死んだり犯人だったり間違ったまま終わったりすることが少なからずあり、後期クイーン問題を引くまでもなく名探偵の絶対性に信頼が持てなくなる。
個人的にはミステリとして読んでも『クビシメロマンチスト』までの西尾作品は良かったし、『カーニバル』雑誌連載部分くらいまでの流水大説は一部楽しめた。しかしやがて「戯言シリーズ」はミステリ要素を薄めていき、評論家が望むまでもなくミステリ史に位置できなくなったのではないか*10流水大説も『カーニバルデイ』で名探偵どころかミステリらしい結末を完全に放棄した*11。むしろジャンルで考えるなら清涼院/西尾ラインの方向性こそミステリ性を放棄する岐路だったのではないか。
もし「萌え」だけで解決編の説得力が成り立つならば、推理や伏線の必要性がなくなる。推理も伏線もない作品は、まず定義的にミステリというジャンルに入るまい。もちろん個々の作品は境界線上に位置づけられるだろうが、傾向としてキャラクターの魅力を押し出すだけでは名探偵どころかミステリから逸脱していくということは考えられる。
ちなみに、作者が自作の名探偵を後期クイーン問題で悩ませるつもりがなければ、それはそれでいいと思う。そもそも自覚的に悩ませるつもりがないのならば、悩んでいないという指摘は問題なく受け入れられるだろう。少なくとも私は作品を即座に全否定する要素としては、啓蒙主義を指摘したことはない。
また、少し話は変わるが、笠井潔作品自体は本質直観で真実を見いだす名探偵を設定し、ミステリ的な真実性は疑われないという先駆的なエクスキューズを作り出した*12。「エクスキューズ」が物語と無関係な要素ではなく、独特の娯楽的な魅力にまで昇華していた先例ではないだろうか。このことは具体的に後述する。


また、私に対するレスではないが、一つミステリ評論史について異議がある。

新本格は社会派に対する古典回帰の面もあったが、旧世代に対する新世代としての身振りも当初から備えていたはず。具体的には、ホラー映画バッシングに対するサブカルチャー側の応答として書かれた小説『殺戮にいたる病』などがあった。
他にも「人間が書けていない」式の書評批判に対する応答は新本格内部ですでにあり、笠井評論はむしろ「新本格」という講談社発のキャッチコピーに代わって「第3の波」のような概念を提唱することで新本格界隈の自意識を批判したところが特色だったと記憶している。


前後するが最後に、後期クイーン問題を受けて書かれた作品群に対して、NaokiTakahashi氏は大きな勘違いしているのではないかと思う。
斎藤肇『思い』三部作は確かに名探偵という超越的な存在について自覚的に悩んだ作品だが、他に言及した作品は名探偵が人間として迷うわけではない。

いや、ちょっときつすぎる言い方だったかも知れないが。天才で特権的な超越者としての「探偵」が、読者にも了解可能に人間的な悩み方をする物語、なんてのがもう流行じゃないんだよね。清涼院/西尾以降は。
NaokiTakahashi
2010-06-06 01:28:34

氷川透『最後から二番めの真実』、貫井徳郎『プリズム』の真相へ言及するので、以下は続きを読む方式で。


当該2作品に共通するのは、名探偵自身の悩みではない。前者はまだしもシリーズ名探偵が推理の完全性について迷いを見せるが、後者で推理する名探偵は誰も自身の推理の確実性に悩むことはない。そう、当該2作品は名探偵が複数登場するところに共通点がある。
氷川作品は作者と名探偵が同一という設定を用いてメタ的に後期クイーン問題を超越した*13わけだが、あえて別の名探偵*14が出した推理を娯楽性高く描くことで、ミステリにとって求められる推理は論理性か娯楽性か*15を問う内容となっている。
貫井作品は純粋に名探偵の各推理が正答として確定できない状況を構成した。個々の名探偵が各々の知見で完璧な推理を披露しながら、その内容は互いに完全な矛盾をきたし、比較して最も妥当と思われる推理を選ぶことすら読者には不可能だ。ちなみに個々の名探偵は、自身の推理が妥当性あることを確信し、それゆえに悩む物語となっている。
つまり、この作品群で悩んでいるのは推理を確定できないでいる名探偵ではなく、名探偵の推理が原理的に不確実なものと知りながら美しく完璧で文句をつけようがない解決編を期待する読者の側にある。後期クイーン問題という言葉で具体化される以前から、ミステリは名探偵の絶対性と懐疑性をとりこんでいた。つまるところ意外性と納得性という相反する要素を融合させようとする形式自体が持つ葛藤なのだと思う。


いずれにせよ、名探偵の絶対性が疑われないのならば、複数の名探偵が推理を披露したり、個々の推理が拮抗して確定できないミステリは存在しえなかった。
前述した笠井作品の本質直観も、他者の推理を否定する方便として使われていた。名探偵にあこがれるナディアが披露する推理は、時としてカケルの推理よりも多く伏線を拾っており、ミステリとして美しい。その美しさが土台となり、覆すカケルの推理をより輝かせた。
名探偵の絶対性への疑いをミステリ史に位置づけるための言葉が「後期クイーン問題」であり、その概念を新しい思いつきとして排しようとも、過去から積み重ねられた作品群は厳然として存在し続けるだろう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20100605/1275753368

*2:58頁。結末が連載開始時に決まっていたか問われて回答したもの。フリガナは引用時に排した。

*3:69頁。作品のテーマを質問されて回答したもの。

*4:61頁。

*5:66頁。

*6:183頁。

*7:もちろん、同じ原作者インタビュー(61頁)で月に対して「ある意味被害者」とも評しているように、全てが単純というわけではないし、別のインタビューで異なる回答をしている可能性もなくはない。

*8:魔王については、特異的に知識を備えている設定が後に明示されはする。しかし、他キャラクターの会話も一方通行的に知見を伝える描写がほとんどで、この場合は設定すら存在しない。

*9:その意味では、当初から主人公同士が深く依存していた「戯言シリーズ」は特異ではあったが、その関係性が異常であることはむしろ自覚的に描写されキャラクターの魅力ともなっていたと思う。

*10:狭義の犯人当てとして提示された『きみとぼくの壊れた世界』も、ミステリとして古典的な短編程度のトリックしか使っていない。

*11:薄いながらもコンゲームとして当初は楽しめた『トップラン』シリーズにいたっては、最終巻で娯楽小説の体裁すら捨てていた。ああいう小説形式もあるとは思うが。

*12:あくまでミステリ小説を成り立たせるための方便と作者自身がどこかで語っていた記憶がある。

*13:『コズミック』のメタ探偵と記述トリックを、一般的な本格ミステリの体裁で融合させたという歴史的評価も可能だろう。

*14:後に別作品で名探偵として描かれ、確かに名探偵であることがメタ的に保証される。

*15:この違いは熱心なミステリファンでないと感覚的にわからないかもしれない。簡単にいえば、物理的にありえなくても見たことがない驚天動地の密室トリックがいいか、それとも現実的だが意外性すらない合鍵を使っただけの密室トリックがいいか、というような問題。古典の焼き直しを読んでも面白くないが、明らかに物理的にありえないトリックでは読みながら推理して真相へ見当をつけるという楽しみが失われてしまうのだ。