法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ミステリと言う勿れ』のような作品はジャンルで区分するなら本格ミステリそのものだよ

念のため、あくまでジャンル分けするならばタイトルの自認に反してミステリらしいミステリだ、という話にすぎない。
ミステリとしての出来の良し悪しは、また違う話となる。


実写ドラマ化で再び話題になっている漫画だが、その評価を見ていると、良し悪しと関係なくミステリではないと位置づけるものが散見されて気にかかっている。
「ミステリと言う勿れ」の主人公がポリコレアフロみたいに扱われてることに違和感を感じるので、自分から見た「久能整」について説明します - 頭の上にミカンをのせる

本作品ではミステリっぽい展開が起きますが、

金田一少年やコナンみたいに読者が読んで推理できるように作られていません。

ミステリとしてみれば完全に失格ですが、作品タイトルで最初からそう言ってます。

たしかに一般的には推理によって真相を一意に決めるものがミステリとして期待されているようだし、それゆえのタイトルではあるだろう。


しかし名探偵が間違った可能性を消去していくのではなく、意味不明な状況にひとつの可能性を提示していくものも、また本格ミステリ*1のひとつだ。
映像化や漫画化もされて有名なものとして、京極夏彦の妖怪シリーズが類例としてあげられているのを見かけた。その意見そのものには同意できる。
hokke-ookami.hatenablog.com
そこでの名探偵は読者と同じ手がかりをもとに推理するのではなく、読者が知らない知識を語りつづけるなかに読者が推理するための伏線をちりばめる。『ミステリと言う勿れ』に近い構造だ。
以前に言及したエントリで軽くふれたが、そうした主人公の主張そのものに伏線を組みこむミステリは古典でも存在する。
『ミステリと言う勿れ』のそもそも正確性を担保していない発言に、正確性がないと批判するのは奇妙 - 法華狼の日記

主人公の倫理的なようで奇妙な主張に伏線をおりまぜるミステリの手法は、『ブラウン神父』シリーズに近い。意識しているのかどうか、名探偵の紹介にあたる初回の構成もよく似ている。


他にも、謎めいたサスペンスを進めながら真相はあやふやなまま読者を驚かす貫井徳郎『慟哭』のような作品もまた、現代的*2なミステリの主流のひとつにある。

近年にTVアニメ化された作品で、『虚構推理』という作品がある。正しい真相よりも楽しい推理を構築することが主人公の目的であり、原作小説は本格ミステリとして高く評価された。
『虚構推理 鋼人七瀬』城平京著 - 法華狼の日記

超常的な事件が実際に起きていると知りつつ、現実に存在しそうな答えを捏造して、社会の秩序を取り戻していくことが主人公側の目的だ。その偽の真相も、観客の信じたいという気持ちを呼び起こすため、現実味よりも面白味を優先している。


他にTVアニメ化された作品として、米澤穂信古典部シリーズの一遍『心あたりのある者は』もある。ひとつの短い文章を手がかりに論理を展開しつづけた名探偵はひとつの可能性にたどりつく。

これも『九マイルは遠すぎる』という古典的な短編が存在し、やはり短い文章から論理をもてあそんで会話のなかで推理を広げていく。

このサブジャンルは推理の厳密な正しさよりも、理屈をこねまわすこと自体を楽しませるタイプのミステリだ。
手がかりが多くて真相がわかりやすければ謎解きが楽しくなるというものではない。むしろ手がかりからどこまで予想を超えた推理を展開するかがミステリの面白味のひとつだろう。
そのように制限がきびしい状況で名探偵が可能性のひとつにたどりつくという意味で、これも『ミステリと言う勿れ』の第1話などに近い。


くりかえしになるが、ジャンル作品らしさをそなえていることと、すぐれた作品であることは必ずしもイコールではない。
ただ、『ミステリと言う勿れ』がジャンル作品ではないとか、傍流だとかいう意見に対しては、むしろ主流に近い作品だとは考える。
もちろん、主流に近いかどうかだけがジャンル作品の評価を決めるものではなく、伏線の巧拙や論理の意外性など評価を左右する部分は他に多数あるが。

*1:謎と解明に重きをおいた作品群の呼称で、人工的なつくりの面白味を重視している。「本格」という呼称に優越を読みとって違和感を持つ向きには、「パズラー」という呼称が良いかもしれない。

*2:ちょうど三十年前の作品であり、もはや古典に片足をつっこんでいるが。