法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『機動戦士ガンダム00』セカンドシーズン#25 再生

くわしくは後でエントリを上げる予定だが、『機動戦士ガンダム00』はつい先ごろ終わった『キャシャーンSins』と同じ文脈で見るべきアニメではないかと考えていた。そして実際、よく似た構造の最終回を迎えた。


そうして『キャシャーンSins』比べながら見てしまったため、どうしても結末で語りすぎていることが気になった。
各人物の戦後を描くのは良いとして、刹那の生存まで明示する必要はなかったと思う。たとえば、世界統一後も消えなかった地域紛争に一期初回と同じ構図でパイロット不祥のガンダムエクシアが介入……といった結末でも良かった。これならば二期後半で地上戦がなかった個人的な不満も解消できる。あるいは遠くで輝く航跡を確認するだけでいい*1
キャラクターを絵で見たいファン層の存在はわかるが、いざ見せてしまうと想像の余地が奪われてしまうことも多い。ヴェーダと一体化したティエリアが人の姿に戻ったイメージ映像にも、同じような問題を感じた。


最終回全体の、主題の落とし所は悪い印象ではない。社会全体に関わるような戦争は、実質的に前回で終了している。おかげで、設定面や一期描写こそ放置された部分はあったが、二期で展開された分は余裕をもって個々人の結論から戦闘の終結まで描けていた。
先述したように余裕がある分だけ語りすぎて余韻を失った感はあり、個々人の結末もほぼ予想範囲内ではあったが、少なくとも極端に評価が落ちる展開ではなかった。
印象に残ったのは、最後まで刹那とマリナの道が交わらず、互いの違いを確認するような手紙でしめくくられたこと。どれだけ反戦や非戦を描いても戦闘で視聴者を楽しませなければならないジャンル的な矛盾が、戦いしか知らない主人公の限界として処理された。ゆえに、矛盾をかかえて自身の幸福を追求できないまま世界全体への抑止力となる結末が、予定調和なりに得心できた。ただし、くり返しになるが、抑止力であればこそ、個人が集った少数勢力でしかない実態を映像として見せる必要はなかったと思う。


戦闘では、舞台が宇宙に限定されたことを除けば、おおむね満足できるものだった。
リボンズキャノンは、珍しい変型デザインで単純に見ていて楽しかったし、遠距離戦と近距離戦の使い分けも密度の高い戦闘で表現できていた。
ケルディムも残された機能を活用しつつ、以前*2とまた異なるトランザムの見せ方で楽しませてくれる。キュリオスの戦闘も、奥行きはもちろん画面外の空間まで感じさせる飛行を長回しで見せ、作画演出面では文句のつけようがない。
ダブルオーライザーからエクシアR2への機体乗り換えが、一期初回からの因縁と決別したことを示すのみならず、パワーインフレの回避になっていたこともいい。別ガンダムシリーズでのサザビー*3やグフ戦*4を思わせる殺陣、それ自体は感心しなかったものの、スラスターを噴いて機体を地面に押し付けながら突貫し、作品独自の殺陣で決着をつけた流れが興味深い。


作画演出面では、時間不足を感じさせることなく、ローテスタッフの主力が多数参加しただけの内容になっていた。
個人的には、演出家としての仕事が多くなっている寺岡巌が、本編で原画に名を連ねていたことが目を引いた。

*1:そういえば一期最終回でも同様の不満をおぼえた。

*2:http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20090222/1235516075

*3:上方から切りかかって機体前面が縦に傷つけられ、切断面が赤熱したカット。

*4:機体前面が横に切られ、切断面から操縦者が露出するカット。