普通にテロだ、ではなくて。
http://www.asahi.com/national/update/0612/TKY200806120251.html
◆象徴的な土地
つまりは、いまや若者の多くが怒っており、その少なからぬ数がアキバ系の感性をもち、しかも秋葉原が彼らにとって象徴的な土地になっているという状況があった。したがって、その街を舞台に一種の「自爆テロ」が試みられたという知らせは、筆者にはありうることだと感じられたのである。
筆者はいま「テロ」という言葉を使った。多くの読者は違和感をもつだろう。テロといえば普通は、何らかの政治的主張を伴った、強い信念のもとでの行動を意味する。今回の凶行にそんな主張があったのか、と。
確かに通常の意味での政治的主張はない。容疑者はネットに大量の書き込みを残している。そこには身勝手な劣等感ばかりが綴(つづ)られている。社会性のかけらもないように見える。
◆疎外感募らす
しかし、逮捕後の調べのなかで、容疑者が職場への怒りや世間からの疎外感を長期的に募らせたうえで、計画的に凶行に及んだことが徐々に明らかになってきている。そこに窺(うかが)えるのは、未熟なオタク青年が「逆ギレ」を起こし刃物を振り回したといった単純な話ではなく、むしろ、社会全体に対する空恐ろしいまでの絶望と怒りである。不安定な雇用に悩んでいたという報道もある。
容疑者は彼の苦しみを大人の言葉で語らなかったかもしれない。怒りの対象も曖昧(あいまい)だったかもしれない。彼が凶行の現場として秋葉原を選んだのは、おそらくはその曖昧さのためだ。もし彼が首相官邸や経団連本部に突っ込んでいたら、だれもがそれをテロと見なし、怒りの実質に関心を向けただろう。彼はその点でいかにも幼稚だった。無辜(むこ)の通行人を殺してもなにも変わるわけがない。しかしその幼稚さは、怒りの本質にはかかわらない。だから、筆者はこの事件をあえてテロととらえたいと思うのだ。
まず、一般人を対象とする無差別テロの存在を、全く無視していることに首をかしげる。「強い信念」により有力者のみを標的とするテロリズムなど、フィクションでも滅多に見られない。
テロリズムというものを観念的にとらえているような気がするのだが。
そもそも、歴史的に個人が行ったテロは、社会からの疎外が一般的な動機ではなかったか。
一例として安重根による伊藤博文暗殺がある。安重根は、身を投じた反体制活動が破綻した結果として伊藤博文を暗殺した。確固とした定見や計画があったわけではない。
当然、伊藤一人を暗殺したところで日韓併合の流れにあらがえるわけもなく*1、反体制活動としては自己満足でしかなかった。
容疑者はむろん厳罰に処すべきである。犯罪の計画性と残虐性は明らかであり、情状酌量の余地はない。また、このような事件は二度と起きてはならず、容疑者を英雄視することは許されない。ネットの一部では共感の声が現れているが、それこそ幼稚と言うべきだ。
◆不可避の社会
しかし、テロリストを厳正に処罰することと、テロが生み出される背景を無視することは異なる。私たちは彼のような「幼稚なテロリスト」を不可避的に生み出す社会に生きている。犠牲者の冥福のためにも、その意味をこそ真剣に考えねばならない。
日韓併合への反対活動へは日本からも同情的な声があり、安重根に対しても軽い刑が執行される可能性があった。秋葉原における今回の殺傷事件と同じく、極刑は犯人自身が望んだことだった。これも安重根が自暴自棄の結果として暗殺を行った傍証だろう。
最終的に、安重根は日本による朝鮮支配へ反発する人々から*2、英雄として祭り上げられた。
「幼稚な」とあえて形容するほど特異なテロリズムとは思えないし、実態から乖離したテロリストの英雄視も珍しくない。
すでに動機については、幾度もフィクションの題材となった「津山三十人殺し」*3等との類似が指摘されている。しかし事件の受容や読解については、あまり過去との比較が見当たらないので、簡単に書いておくことにした。より適切な位置づけができる比較対象もあると思う。
重大事件が起こる度に、その固有性、特異性が強く指摘される。それは良い。しかし同時に普遍性ある部分も指摘しなければ、一過性の事件として消費されてしまうだけに終わるだろう。