法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『らき☆すた』第17話 お天道様のもと

この作品がどうして面白く感じられないのか、今回で感覚的に一つわかった。


主人公の一人、こなたは、アニメやマンガを好みネットゲームに耽溺する典型的なオタクとして描かれている。しかし今回、小説を全くといっていいほど読まないことが明示された。アニメ原作のライトノベルすら読まず、雑誌等の文章は飛ばしていたという。その姿を他のキャラクターに苦笑いされるが、こなたは開き直る。そこに濃いオタク*1でない自分を恥じる姿はない。
私は趣味に対して人生をささげるまではできないものの、趣味をつきつめるオタクは尊敬するし、オタクなら目指すべき姿とも思うくらいだ。
他の登場人物も一般から見ればオタクに分類されるとしても*2、かつてのオタクとは違う意識を持っている*3。濃さでいえば、こなたは私よりずっと濃いオタクだろうが、自意識は薄いオタクに似ている。ずっと自然に空気のようにアニメやマンガを受容し、珍しい作品を渇望する姿はない*4。こなたの濃さは、ギャグキャラとして、あるいは一人で様々なオタクネタを集中担当する結果によって生まれたものではないか。


ついでに、EDやOPといった作品形態の遊びでは、今期では『銀魂』が上だと思う。最終回のような特別EDを多用するだけでなく、主題歌を早回ししたり途中で切ったり入れ換えたり、作中で使用したり。パロディも、一発ネタがほとんどだったり同じネタをくりかえす『らき☆すた』より、ずっと再現に力を込めていると感じた*5


まったりした日常生活という作品評価をどこかで聞いたが、『らき☆すた』のネタは基本的に作り手と受け手の共通言語にとどまり、非日常に遊離するということがない。アニメ店長コミケといったネタは、作中世界で特異な存在ではあっても、視聴者にとってはありきたりな情報にすぎない。散りばめられたパロディで元ネタがわかりにくいものも、用意されたイベントとしか感じられない。
原作ファンに対して原作から想定される通りの作品を届けるような、いかにも京都アニメーション的な作品ということなのだろう。作品の奥深くまで作り込み読み取るような、制作者と視聴者が真剣勝負する作品ではない*6
ディズニーアニメが「入り口と出口の高さが同じ」と評されるのと同じように、視聴した後で心情や価値観が大きく変化することも、たぶんないだろう。


私は、*7出崎統監督『劇場版AIR』の方がいい。
監督が原作の展開に悩み、闘った姿がにじみ出てるくらいが興味深く楽しめる。

*1:オタクが趣味に対して持つ知識や経験の深さは、濃い薄いという形容で表される。

*2:http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070731/p1

*3:http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070730/p1参考。こういった意識はたぶん世代や環境の差違により、手に入る情報量が異なるため生まれたと思うのだが、まだ考えをまとめていない。

*4:レアなグッズを求めはしても、入手困難なマンガやソフトを探す描写が無いのは、趣味をモチーフにする物語では珍しい。

*5:パロディという手法そのものはけして好きではないが。

*6:これはこれで不健全で、必ずしも制作側が求めている楽しみ方ではないと思うが。

*7:原作ゲームを遊んでいないので適切な例ではないかもしれないが、京都アニメーションと同じ原作を使用したアニメはこれしか見ていないので。一応、オチのつもりではない。