法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『呪怨 ザ・ファイナル』

 小学校教師だった姉が失踪したことで、残された妹が佐伯俊夫について調べはじめる。入院している少女が、不思議な光景を目撃する。そして佐伯家が物理的に姿を消した……


 人気ホラーシリーズの完結作品と喧伝された2015年の日本映画。たしかに現時点で映画作品としては最後だが、2020年にNETFLIXで連続ドラマが配信された。

 映画の内容としては、メインスタッフが共通する『呪怨 終わりの始まり』*1から直接につづいている。
 良くなかった前作と比べても顎がはずれるほど怖くない。全体的に恐怖描写は幻覚のように描かれ、しかも前半は恐怖が存在しなくなったことを確認してから次の章にうつるばかり。もともと怖く演出できてないのにクールダウンしてどうする。俊夫がオーバーラップで登場する描写などは半世紀前の怪談映画かと思った。
 恐怖描写のアイデアでよかったのはスマホを利用したズーム撮影で窓越しの恐怖を観察する『裏窓』*2的なシチュエーションくらい。しかもその観察者は死を恐れない背景があり、超常に対峙しても精神がゆらがないので、その心情が明かされてからは恐怖が消滅する。
 シリーズの売りだった時系列を前後するオムニバス構成も完全に崩壊して、黒地に白字で名前が浮かびあがる恒例の章立てが機能していない。その名前が視点人物というわけでも恐怖の主軸というわけでもなければ、その章内だけは時系列にそっているというわけでもない。ヒロインの恋人である駅員視点による恐怖は章をまたいで描かれるし、章内の時系列も前後する。ただ漫然と流れる時間に意味もなくテロップが挿入されているだけになっている。
 恐怖をささえる日常描写も稚拙で、日本映画としては抑制された演出で俳優の魅力をひきだしていた初期シリーズの良さがない。登場人物は説明台詞を多用するし、これで終わせるといったシリーズ終焉を意識したような話題を唐突にはじめる。それらの不自然な描写の理不尽さが恐怖に転嫁されるわけでもない。

『呪怨 終わりの始まり』

 児童虐待のうたがいで佐伯家へふみこんだ児童相談員が、とんでもないものを発見する。学級担任となった女性教師が、不登校の児童がいるらしい佐伯家へむかい、その前後から女性教師の周囲に異変が起きるようになった。さらに佐伯家へ度胸試しで侵入した女子学生たちも恐怖へ直面するようになり……


 人気ホラーシリーズの続編としてつくられた2014年の日本映画。『催眠』等の落合正幸が監督と脚本をつとめ、Jホラーをプロデューサーとして牽引した一瀬隆重が共同脚本。

 シリーズをたちあげた清水崇も原案や監修としてクレジット。しかし同時期の別作品インタビューで話をふられ、「僕の手から強引に剥ぎ取られたシリーズ」*1とコメントしたような立場だったらしい。


 カメラを微妙に動かしたりと全体的に清水崇の原典より予算をつかっているようだが、その大半が恐怖を減じさせる方向にはたらいている。屋根裏が汚していない白木なので、わざわざセットを作っているのがバレていることも鼻白む。
 シリーズのセルフパロディ的な恐怖描写が、よりによって原典でもすべった描写ばかりなのも良くない。たとえば顎がなくなった少女はビデオ版2作目*2から引いており、メイキングを見ると巧妙なVFXをつかっているのだが、長々と映すので絵面の間抜けさばかり感じられた。
 さらに失敗しているのが、シリーズの顔でありつつ、だからこそ早々に消費されて笑いの対象になった白塗り少年の佐伯俊雄をメインにすえたコンセプト。窓から腕だけが見えるカットだけは、最近に視聴しても怖かったビデオ版1作目*3における初登場のオマージュとして不穏感を出せているが、原典ほどの異物感はない。
 冒頭のモキュメンタリーのようなビデオ映像や、生身で暗がりにたたずむカヤコはそこそこ恐怖を感じられたから、むしろ白塗りの俊雄を使用しない方向にすればマシになった気がする。原典にはなかった設定をつけくわえてまで俊雄を中心にしたいなら、原典にはないホラー描写のアイデアがほしい。


 しかし恐怖の演出力そのものも全体的に弱い。恐怖が登場する直前にカットを割って客観的なショットを入れることが多くて、観客に心の準備をさせてしまう。数少ない怖さを感じさせた冒頭のビデオ映像ですら、いったんカットを割って普通の映画らしい客観的なカメラにして、さらにいくつかのカットを入れてから恐怖が襲ってくる。このシークエンスは最後までビデオ映像で撮りきるべきだ。後半の広い部屋で少女が超常現象でふりまわされる場面は長すぎ、かといって肉体的にボロボロになるわけでもないので物理的アトラクションとしか思えず、ホラーにもサスペンスにもスプラッターにもならない。
 明るい屋内で恐怖描写を多用するコンセプトは面白かったが、演出力の不足で裏目に出てしまう。明るいため造形物の稚拙さも目につく。先述した顎なし少女のVFXはメイキングを見ると良い印象だが、映画を視聴している時は組みあわせた造形物の稚拙さばかり目についた。終盤の最大の恐怖も同様の問題があり、映画全体が怖くないという印象で終わってしまった。
 物語の構成も首をかしげる。いったん呪いにとりこまれた教師に対して、恋人として同居する脚本家が謎解きをおこなって、やはり呪いにとりこまれてしまう。そこから再び教師の一般人としての視点で恐怖を感じていく展開が感覚的に納得しづらい。シリーズ恒例の時系列シャッフルをおこなっているなら問題ないが、交互に呪いがかかったり解けたりしては弱体化と感じてしまう。いったん呪いにとりこまれれば逃げられないことをシリーズで印象づけられているため、教師視点にもどっても死んだキャラクターの物語としか見ることができなかった。

『女神天国』

 同名の読者参加企画におけるメディアミックスのひとつとして1995年に販売された全2話のOVA。アニメ版のキャラクターデザインと作画監督山内則康がつとめた。

 キャラクターデザインなどには原案があるが、スタッフワークなどから『Aika』のプロトタイプと言えそうな作品。『Aika』と同じく画面に無駄にパンツを見せつけるコンテがナンセンスきわまりない。前後とも演出が水島精二で、田中良が原画に参加。しかしアクションはチャカチャカ動きが軽くて、悪くはないが良くもない。
 ファンタジー作品らしく上半身にボリュームがありながら下半身が生足ハイレグなコスチュームデザインがアンバランス。ストッキングの質感を表現するのはアナログ時代には手間がかかり、下着のために中間色をつくったり仕上げで彩色するにも費用と手間がかかった時代ならではか。
 同じキングレコード作品の『新世紀エヴァンゲリオン』がヒットする時代に緒方恵美がメインキャラクターの女性剣士を演じている。戦闘的とはいっても長髪の女性的なキャラクターを正面から演じるのは当時でも珍しかったのではないか*1


 内容としては、女性しかまったく登場しない、その純粋さが現在にいたるまで意外と珍しいファンタジーアニメ。はっきり性欲を感じるキャラクターが存在せず、『Aika』にはサブでいたレズビアン表現もないので、半裸が多いわりに意外と性的に感じない。
 物語は先述のように全2話で、1話ずつがTVアニメの通例より少し尺が長いくらいだが、1話目は上の指示にしたがって仲間集めのお使いをこなしながら敵味方のキャラクターを手際よく説明していく。しかし第2話は主人公が儀式の触媒として敵に拉致され、ほとんどの時間を気絶していてドラマを動かさない。主人公を囚われの姫役として仲間が戦うアクションストーリーとして成立はしているが、そのストーリーで心ひかれるところがない。
 敵が一定の目的を達しつつ敗北したところが終わりなので、OVAだけでは物語が完結していないのも難。キャラクターを売るためのコンテンツでオーソドックスにまとめているとはいえるが……

*1:原作者の意向がはたらいたらしい『魔法騎士レイアース』は例外だろう。

業種ごとに必要な支援のスタイルが異なることを指摘した平田オリザ氏が他業種を見くだした象徴にされて、実際に庶民を見くだしている麻生太郎氏が象徴にされることはない

 新人職員訓示における職業差別を批判され、当然の辞職表明に追いこまれた川勝平太氏について、平田氏と同等視する「bella GERBERA@umenohanakirei」氏のツイートが注目をあつめていた。


ほんと何度も何度も言うように、皆んなが苦しいコロナ禍で、平田オリザの「製造業はまた再開すればいい。我々の演劇は絶えたら終わる。我々のほうが貴重なんだから支援したまえ」が大炎上した理由と一緒なんよな、川勝知事の舌禍。たぶん身内の飲み会とかで優越感たっぷりに


沢山読んでいただきありがとうございます。うちは家計が製造業で成り立ってるので特に個人的に恨みが深いwゆえの発言だったのですが、思ったより皆さんの恨みも買っていたようで…やはり普段の意識や言い方は大事だなあと痛感しています。通知は切りますが、どうぞ恨みつらみを吐いてって下さい

 しかし当時に批判の根拠とされた記事で平田氏の実際の発言を確認したところ、製造業に支援が不要という内容ではないことは明らかだった。
演劇への支援を求める平田オリザ氏のインタビューについて、いくつかの代表的な批判を見ると、むしろ多くの反発は不当なものという印象を受けた - 法華狼の日記

私たちはそうはいかない。製造業の支援とは違うスタイルの支援が必要になってきている。

上記の文章から、製造業に支援が不要という主張を読みとるのは、いくらなんでも読解力に欠けていると思わざるをえない。
製造業が支援されることを前提として、それとは異なる支援を求めていると一意に解釈するべきだろう。
「スタイル」と表現していることから、求めている違いが多寡ではないことも読みとれる。

 平田氏は観光業なども演劇界と同じ再開への支援だけでは回復できない問題があることを指摘していた。あくまで国民みんなが大変な状況をしのいでから、「次の段階」として演劇界の支援をもとめていた。
 そもそも平田氏が語った「製造業はまた再開すればいい」という製造業の支援スタイルは、あくまで当時の安倍政権がうちだしたものだった。その支援スタイルに問題があるなら、信じた平田氏よりも政府を先に批判するべきだろう。


 たとえば「下々の皆さん」*1のように実際に庶民をみくだすような発言をした同じ政治家でもある麻生氏は連想しないのだろうかと思ったが、「bella GERBERA@umenohanakirei」氏は嫌悪感をもたないようだ。


麻生さんは結局のところ憎めないのよね。以前、歴代の総理の直筆の色紙を壁に飾ってる古い酒造を尋ねた事あるんだけど、麻生さんの字は目をみはるくらい秀麗だった。次はアベちゃん。一番「親しみを感じる」字は野田さんだったわね


でも茂木さんのコート、「あら仕立て良いじゃない?」と思った後にシュッとして麻生太郎の写真になった途端「すいませんした!別格でした!」と秒で土下座になるから、やっぱり年季って大事なのね

 むしろ事実上の特権階級として麻生家が存在することや、それを背景にした文化的な資産を、麻生氏を高評価する理由にしているようにすら読める。
 このことは、近年の日本の保守的な政治家では珍しく川勝氏の差別発言がきちんと問題視されたり、当時から現在まで平田氏の表現が誤読されていることが、差別そのものへの批判意識が理由ではないことをうかがわせる。

『わんだふるぷりきゅあ!』第10話 ユキの中の思い出

 猫屋敷まゆは母から新商品のアイデア出しをたのまれ、授業も散歩も上の空。しかし犬飼いろはたちと出会って、泥だらけのこむぎを見て、飼い猫のユキと初めて会った時を思い起こす……


 香村純子脚本。フォーマットが強固なスーパー戦隊で何度もメインライターをつとめてきた経験があるためか、番組の残り時間が少なくなってもプリキュア変身ノルマをこなし、ちゃんとアライグマの生態を反映したおもしろい失敗とアクションを展開した。住宅街の自販機や歩道の柵をガルガルが破壊したり、その情景を窓から見おろす構図が最近のシリーズでは珍しい。
 ただ、まゆがまだプリキュアに変身しないとはいえ、ドラマ部分とアクション部分の関連が弱い。思い出の山奥や雪に関係する動物か、いっそのこと人になつく前のユキを思わせる猫のガルガルを出すべきではなかったか。
 そもそも新商品の開発とユキとの出会いのドラマも、デザインの方向性を猫に決めるくらいしか関連していない。それぞれ共感性羞恥におそわれる空回りコメディと、情感あふれる幼いころの思い出のドラマとして悪くないのだが、どちらか一方に時間をさいて注力し、ひとつの物語として完成させてほしかった。作品のさまざまな楽しみをちりばめ、30分枠を飽きさせない「番組」としては今回の構成も正解だとは思うのだが……