法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

長崎では保守派が日本の加害を否認し、被爆者こそが南京事件の記憶を求めている

長崎原爆資料館の展示物が攻撃されている件について、両論併記するかたちで共同通信がつたえていた。
this.kiji.is

市は昨年12月に開いた「長崎原爆資料館運営審議会」で南京大虐殺の表記を議題に挙げ、被爆者や市議、公募の市民ら19人の委員に意見交換を求めた。そのまま維持するべきだと訴える被爆者と、虐殺は事実無根として変更を主張する保守系団体の代表が発言し、議論は平行線をたどった。

保守派が勢いづいた背景として、日本という国家全体の問題があることも指摘されている。

市が態度を変えた背景には文部科学省の検定教科書の表記変更がある。原爆資料館の展示内容は検定教科書に準拠しており、96年4月の開館当時に使用されていた中学社会科の教科書(92年検定)では8社中、少なくとも6社が「南京大虐殺」「ナンキン大虐殺」などと表記。一方、現行の教科書(15年検定)で同様の表記は2社にとどまり、「南京事件」や「南京攻略」などとする出版社が増えた。

ピースおおさかが大阪維新の会などの攻撃により、展示物の撤去にいたった前例も言及されている。

戦争博物館「大阪国際平和センター」(大阪市)が15年の改装の際、大阪維新の会自民党の府市議らに「自虐史観」と批判された南京大虐殺朝鮮人強制連行などの関連資料を撤去した。

大阪では対立している維新と自民党の意見が一致したあたり、両党の性格をよく表している。表現の自由言論の自由を重視する立場なら、けして維新の会や自民党を支持してはならないことが痛感される。


何より印象深いのは、被爆者こそが日本の加害を歴史として記憶しようとしていることだ。
広島の被爆者であった詩人の栗原貞子氏は、「ヒロシマというとき」という詩を遺した。世界に原爆の被害を訴えた時、返ってくる怒りを受け止める覚悟に満ちた内容だ。
https://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/database/KURIHARA/hiroshimatoiutoki.html
今回の長崎においても、被爆者や支えようとする人々こそが、日本の加害を直視しようとしている。

「日本に植民地化されていたアジアの人々にとっては、原爆投下で自分たちが解放されたと考える人も多い」と指摘するのは、旧日本軍の加害行為に焦点を当てた展示の「岡まさはる記念 長崎平和資料館」(長崎市)の崎山昇事務局長(61)。過去に韓国やマレーシアで原爆展を開こうとした際に現地の住民から抗議が出たケースもあると紹介し「日本人として過去の行為と真摯に向き合わなければ、被爆地から核兵器廃絶を叫んでも相手にされない」と訴えた。


崎山氏の指摘で思い出されるのが、社会学者の古谷有希子氏が同じような指摘をツイッターでおこない、難癖としか思えない攻撃をされた件だ。
hokke-ookami.hatenablog.com
南京虐殺慰安婦強要をした日本への原爆投下には正当性があった、と古谷氏のツイートが読解され、民間人虐殺を正当化しているという非難がされていた。
もちろん実際のツイートを読めば、そもそも古谷氏は正当化などしていなかった。

古谷氏の発言を見れば、「同等に低劣であるなら、正当性が無い日本の残虐行為の方が酷い」と、どちらも否定しつつの相対評価であって、原爆そのものを正当化する意図がないことは明らかだ。

直前のやりとりを見れば、古谷氏のいう「正当化」が米国や韓国でそう認識されているという文脈ということがわかる。

韓国や米国では、日本で繰り返し強調されるような「広島長崎の原爆の悲惨さ」「被爆者の苦悩」は両国では全く理解されていません。原爆は正当化されているのです。我々にできるのはせめてもの理解を求めることであり「被爆者の気持ち考えろ」と批判することではないのです。

それでも絶対評価として戦争や虐殺を否定するために古谷氏を批判するならばわかるが、南京事件などに対して「そもそも悪の定義とは?」と主張する立場から批判しても虚しいだけだ。

ただひとつだけ古谷氏のツイートに補足すべきところがあったかもしれない。
むしろ「被爆者の気持ち」を考えればこそ、原爆投下にいたらしめた日本の歴史を直視しなければならない。
それに被爆者の多くは、被害を受けた当時に国家のゆくすえを選択できた立場でもない。民主主義で育った私たちこそが背負うべき問題だ。