法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『チェンジリング』

1928年のロサンゼルス。クリスティンはシングルマザーとして一人息子のウォルターを育てながら、電話会社で交換手を管理する立場にあった。
そんなある日、ウォルターが姿を消す。クリスティンはロス市警に連絡したが、24時間たたないと捜査をはじめないという。
しばらくして怪しい男に置きざりにされた少年が保護され、ウォルターを発見したとしてロス市警はクリスティンとの再会をメディアで演出した。
しかしクリスティンは、その少年はウォルターではないと感じて、社会にうったえる……


クリント・イーストウッド監督による2008年の米国映画。1920年代の事件にもとづき、2時間20分ほどの長編サスペンスにしあげた。

いくらでも社会派なメッセージを読みこむことができる作品だが、すでに力のはいった批評が無数にあるので、今さらいうことはない。
都合の悪い女は精神病院に強制入院させられる『チェンジリング』~男性映画の名手が撮った古典的女性映画 - wezzy|ウェジー
とにかく印象に残ったのは、娯楽として多彩な内実。大事件における個人の特異な体験から導入することで、事件の様相が変わっていくごとに映画のジャンルが変転していく。


まず始まるのは、20世紀前半の北米都市におけるモダンな職場が再現される歴史劇と、息子の行方不明をうったえても警察が動いてくれないサスペンス。
しかし偶然にもどってきた子供を警察の広報に利用される社会派テーマから、もどってきた息子が別人にしか見えないという不条理劇へ移行。実際の息子は序盤に少し出ただけで、少年が息子であることの否定も主人公の主観ばかりなので*1、同居描写にはサイコホラーの雰囲気もある。
それでも少年を息子ではないと訴えつづける主人公は精神病院に収容され、閉鎖環境テーマの作品の列にもつらなっていく。ここで社会の抑圧は主人公個人に向かっているのではなく、すべての弱い女性がしいたげられていることが明らかになる。
ここから視点を変え、カナダからの不法移民の少年にまつわる物語がはじまり、事件の全貌があらわになっていく。捜査の過程と判明した真相には、フィルムノワールのような息苦しさがあった。このパートをふくらませるだけでも上質のクライムドラマを制作できたろう。
さらに法廷劇などの要素をへてから、最後の最後に、あまりにも高潔な英雄を誕生させて映画は終わった。


途中でジャンルを変えた映画といえば同監督の『ミリオンダラー・ベイビー*2もあるが、転回が急すぎて転落に作為を感じてしまったし、物語の連続性が足りないようにも感じた。この作品は連続性と緊迫感をたもったまま、さまざまな恐怖と信念を描いていく。
個々のパートは長くないが、それぞれのジャンルの魅力が抽出されている。最初は事件の全貌を知らないまま観れば、最も純粋に作品を楽しめるだろう。私個人は誘拐事件で被害者をとりちがえたとだけ聞いていて、黒澤明『天国と地獄』のような映画だと想像していた。


また、この作品はイーストウッド自身が出演せず女性を主人公にしつつ、紆余曲折をへて強い男の復権を描いたといってもいいだろうか。
むろん、主人公の女が舞台の中心からおりるわけではない。母として生きつづいたことを示しながら映画の幕がおりていく。しかし主人公が強き男の代替として強き女だったかというと、それはそれで少し違うだろう。主人公が周囲を変えられた局面は、映画において明確には存在しない。主人公が強かったとして、それは社会を変えるものではなく、社会に変えられなかったことにある。

*1:サスペンスとして考えると、歯型という物証を見つけるまでは、実際の息子を画面に出さなくても良かった。

*2:ボクサーの特異な体験という連想から、年間対戦最多記録をもつ堅実なボクサーの半生を描く邦画を、あえてスポーツ娯楽作品のような導入でつくったらどうだろうと思いついた。その日々も、まちがいなく記憶されるべき人生のひとつであろうし、それをしっかり描くことで奪われたものの大きさを観客が実感しやすくなるだろう。米国の似た出来事を題材にした映画『ザ・ハリケーン』があるが、未見。