法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『凪のあすから』第五話 あのねウミウシ

海に住む人々と、陸に住む人々が、たがいに言葉をかわして海辺で生活圏を重ねつつも、断絶している世界。海に住む人々は特殊な膜「エナ」に包まれて生まれ、生身でも水中生活ができるかわり、地上で長く行動することはできない。
海の人と陸の人が夫婦となって子をなすことはできる。しかし産まれる時にエナを破るため、子孫は二度と海へ戻ることはできない。そのため、海から陸へ嫁ぐ自由はなく、もし嫁いだ時は村から永遠に追いだされてしまう。
現代の漁村を思わせる風景で、地に足のついた生活を送る人々を描きつつ、設定は寓話らしくわかりやすい。そのようなTVアニメで描かれてきた小さな家族の物語が、今回ひとつの結末をむかえた。


亡母のかわりとして海中の一家を支え、若いころから陸で仕事をしている少女、先島あかり。
あかりが働いている陸のスーパーマーケットに、「どっかい(け)」と文章を書きかけていた幼女、潮留美海。
あかりの陸上の恋人として登場し、美海の父と明らかになって浮気が疑われた青年、潮留至。
美海を育てながら亡くなり、最期まで海の村にもどることがなかった女性、潮留みをり。


あかりは、みをりの生前から潮留家とつきあい、美海とも仲が良かった。みをりを尊敬し、亡くなった後の家族の空白を埋めようと思っていた。しかし、義母になろうときりだした瞬間、なついていた美海に拒絶される。
たがいに愛して思いやろうとしているのに、幼い家族は衝突してきしみをあげる。ふたつの共同体から助けをえられれば、まだ余裕を持てたかもしれないのに。
悩んだ末、あかりは至と別れることを決めたが、それを伝えると美海が家出してしまった。美海の身を案じながら、逆にどれほど潮留一家を愛していたかを痛感するあかり。そして大切なものを切り捨てることをやめ、全てを欲張りに愛しつづけることを誓う。


ここで印象深い場面がある。
あかりの弟、先島光が美海を見つけて、ふたりで一夜を明かしていた。その時に美海は母の影を求め、夜の海に飛びこむ。もちろん陸の血をひいているため呼吸ができず、溺れてしまった。そこを光に助けてもらいながら、美海は叫ぶ。「私、泳げない! どうして? ママは海の人なのに、どうして私、泳げない……」と。海を愛する母に美海と名づけてもらいながら、陸で生きるしかない体を、ひそかに美海は悩んでいたのだ。
この時、陸と海の共同体を断絶させるための設定が、子供を“障碍者”として産んだという文脈につながった。そう解釈することには批判もあると思うが、過去に見聞きしたさまざまな報道や物語を、見ていて思い出さずにいられなかった。少なくとも、最初の設定が語られた時点で子供の立場にも気づいてしかるべきだった。だから美海の心情を知った驚きは大きく、自分自身の視野のせまさを痛感した。
もちろん美海の肉体は多くの視聴者にとって“健常者”だろうし、それが目くらましとなって今回より前に苦悩に思いいたることは難しい。しかし、しばしば障碍の基準とは相対的なものだ。たとえば貧しい社会において肥満は裕福の証明であり、飢餓を生きのびる余裕ともなる。他にも複数の疾患とされる体質や遺伝が、特定の環境で生きるための機能を持っているといわれている。
陸と海の断絶を象徴する肉体で産まれた子供。だからこそ、あかりによる全てを愛するという誓いが、これからの救いになるはずだ。今ある全てを愛するということ、それは欠落をふくめて肯定するということなのだから。


そして美海もまた、あかりを嫌っていたのではないことが明かされる。大切なものを遠ざけようとしていたのは、またいなくなることを怖がっていたから。書きかけの文章を光と美海が完成させると、あらわれたのは「どっかいかないで」というささやかな願いだった。
物語の結末で、あかりは宣言する。誰かのかわりではなく、ひとりの人間として美海に向きあうことを。どれほど悲しくても大切なはずの思い出をぬりつぶさないために。それを美海も受けいれる。
ふたつの共同体のはざまで苦しみ、これから家族内でも差異に向きあわなければならない新しい一家の、ひとつの結論として胸に落ちた。