法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

科学は原発も反原発も選択しない

総合科学雑誌『Nature』がオンラインで開催した福島原発事故Q&Aが注目されている。4分割された非公式の翻訳エントリによって日本語で読むこともできる。
英語圏の総合科学誌「ネイチャー」の福島原発事故Q&Aの日本語訳(Part 1) | Personal Space
くだけた口語体で訳され、整理された質疑応答ということもあって長文ながら読みやすい。基本的にわからないことは明確にわからないと答えつつ、出されている情報を分析し、出ていない情報には推測をくわえて暫定的な回答を出している。
注意したいのは、環境学者Jim SmithがPart3末尾において、原子力発電へ賛成の意向を暫定的に示している部分。
英語圏の総合科学誌「ネイチャー」の福島原発事故Q&Aの日本語訳(Part 3) | Personal Space*1

Aya Diabからのコメント: Jim、この事故によって、「新しい核の時代」の方向は、どう変わっていくと思いますか?


JS: いい質問ですね。私としては、まだ、このことを考えるのは、ちょっと早いと思います。はっきり言って、まだ事故の収束のめどが立っていないうちに政治家たちがこの話をし始めたのには、びっくりしてます。でも、私の「現時点で」の考えを言わせていただきますね。私は、環境科学者ですが、20年もチェルノブイリの研究をしてきて、そしてこの福島の事故を経験した今でも、原発賛成派です。私は、すくなくともあと数十年は、原発と、その他の再生可能なエネルギー源を組み合わせることで、二酸化炭素の生成をなるべく抑えて電力を供給しているべきだと思いますし、それが、核原料(ウランとプルトニウム)が平和のみに利用されることにつながるとも思います。

上記の回答は、あくまで日本国外の学者が日本国外の質問者に対して行ったものだ。日本で原発を推進するべきという意見には直結しない。
実際には直後のPart4冒頭において、原発の立地に日本を想定したとおぼしき質問があり、こちらでは少しばかり意見を推進から保留へ後退させている。最近の新しい原発はもっと安全なよう設計されているという、ごく当然の回答をしているだけだ。やはりPart3末尾の回答は日本以外の地域を想定したものととらえるべきだろう。
英語圏の総合科学誌「ネイチャー」の福島原発事故Q&Aの日本語訳(Part 4) | Personal Space

Stuart McIntoshからのコメント: Drew Wrightの質問に関係してるんですが、地震津波の多い国や地域は、原子力発電以外の方法で電力をまかなうべきだと思いませんか?


BO: これは「新しい核の時代」の質問に関係してますね。


JS: これもいい質問ですね。でも、これは、現在の福島の事故の収拾がついて、ここで学んだことを踏まえてからじゃないと、答えにくいです。ただ、Geoffが言うように、最近の新しい原発は、もっと安全なように設計されてます。

Jim Smithの発言を受けて『Nature』自然科学論説員のGeoff Brumfielも答えた。こちらは日本にとどまらない世界全体の視点でとらえ、技術を選択することは社会の政治問題でもあることを指摘している。

GB: 原発は、すべて、ある程度のリスクはこえられるように設計されてます。ここで留意しておきたいのは、福島の原発は、設計段階で考えられていた最大の災害よりも何段階も上を行く大災害にみまわれたにもかかわらず、一応は、破壊されずに、まだ残っているわけです。
とは言っても、これは、これから世界中で、施政側と市民が、ともに解決していかなきゃいけない問題でしょう。実際のところ、もうドイツなんかでは、かなり活発な議論が始まってます。

科学とは、わからないことを明確にわからないと記述する思考法だ。どのような価値観が正しいかを導こうとする思想ではない。どの程度のリスクを、どのように誰が負担するべきかという選択は、科学だけから導くことは難しい。
たとえば少数の誰かが犠牲になることで多数が幸福になることを、科学は肯定も否定もしない。少数に負担をもたらす社会の効率性や冗長性を論じたりはできるだろうが、そうした効率性や冗長性を選択するための価値判断は、基本的に科学の役目ではない。
科学は原発を選択した市民*2を肯定も否定もしてくれない。少数の誰かが犠牲にされる社会のような、様々な理由で認識しがたい状況を見定めることが科学の仕事だろう。そうして「見えている」出来事に対し、やりたいこととやるべきことを一致させ、世界の声を聞くことが市民の仕事であり、責任だ。


また、上記のQ&Aは不安にもとづいた質問へ回答している結果、安心感を出そうとしている傾向もうかがえる。翻訳のニュアンスによる差異もあるかもしれない。
同じ『Nature』でも、前後して公式に翻訳されていた3月28日の記事は、比較的に将来の危機や経済負担を強く警鐘している。
http://www.natureasia.com/japan/nature/special/nature_news_032811.php
まず、チェルノブイリ健康被害が測定困難であることを記事は指摘している。

事故現場からもっと遠い地域に住む人々は、どんな影響を受けたのだろうか? チェルノブイリ原発事故が最終的にヨーロッパ全域でどれだけの死者を出すのか推定するためにさまざまな研究が行われてきたが、その推定には数千人から数十万人まで幅がある3。現在、ヨーロッパ全体では、がんは死因の約1/4を占めているため、疫学者たちは、チェルノブイリ原発事故の広範にわたる影響を見つけ出すのはおそらく不可能だろうとみている。

3. Peplow, M. Nature 440, 982-983 (2006). | Article

Q&Aでタバコとの比較を質問されたJim Smithは、他の発癌リスクに比べて「かなり低い」と回答したが、それは原発のリスクを無視していいという意味ではない。低いなりに存在するリスクに意味を見いだすかどうかは、政治や個人の価値観がからんでくる。
記事の別部分では、日常的な低線量放射線が、通説以上に健康被害をもたらすという最近の研究も紹介されている。

かつては、長期にわたる低線量被曝による危険は、近距離での被曝による危険に比べてはるかに小さいと考えられていた。しかし、両者の危険にあまり差がない可能性を示唆する証拠が集まりはじめている5。このことが裏づけられれば、日常的に低線量放射線にさらされている人々は、これまで考えられていた以上に、健康に問題を生じる可能性が高いことになる。

5. Health Risks from Exposure to Low Levels of Ionizing Radiation: BEIR VII Phase 2 (NRC, 2006); available at http://go.nature.com/r7jeca.

また、心理的な不安が現実のリスクとして立ち上がる問題にも記事は目配りしている。

その上、そうしたつかみにくい数字にばかり注目していると、この事故が社会に与えたはるかに幅広い影響を見落としてしまうおそれがある。1991年のソ連崩壊で大きな打撃を受けたウクライナベラルーシでは、被曝への恐怖が長らくあとを引いていることが、人々に絶望感を抱かせる一因となっていると考えられている。絶望感は、アルコール依存症の発症率や喫煙率の高さと関連しており、これらは低線量被曝よりはるかに大きな健康被害をもたらす。
環境疫学研究センター(スペイン、バルセロナ)の放射線疫学者Elisabeth Cardisは、「こうした人々が受ける影響については、驚くほどわかっていないのです」と言う。「被曝のせいで死の宣告を受けていると思っている人もいます」。今後の研究で、チェルノブイリからの放射性物質が、比較的遠い地域に住む人々にはあまり影響を及ぼさなかったことを示す説得力ある証拠が得られるかもしれない。しかし、「調べてみないとわかりません」と、ストレンジウェイズ研究所(イギリス、ケンブリッジ)のがん研究者Dillwyn Williamsは言う。

これは単純に原発を恐れてはならないという問題ではない。調べてみないとわからないリスクを持っている技術が、心理的な負担を生んでいるという問題だ。物理的なリスクが不明瞭では、原子力への不安を科学が解消することは難しい。
結論部分では、Jim Smithが登場してコメントしているが、やはりQ&Aと比べて悲観的な予測を述べて、警鐘の意味が強いと感じる。

最後に、チェルノブイリが福島に教える最も重要な教訓は、原子炉の冷却に成功したあとも、原発事故はずっとその地域を苦しめ続けるということだ、とSmithは言う。福島第一原子力発電所の周辺地域が、半減期30年の放射性セシウム137でひどく汚染された場合には、日本政府は数十年にわたって立入禁止区域にしなければならないかもしれない。原子炉を廃炉にするにも、炉心の損傷の程度によっては数十年かかる可能性がある。さらに、健康にどのような危険があるのか予想できないという現実は、放射線による物理的被害よりはるかに大きな心理的被害を与えるおそれがある、とSmithは言う。
1日の仕事を終え、無頓着な様子でスラブティチ行きの電車に乗り込むチェルノブイリの作業員の多くは、こうした教訓について、あまりにもよく理解している。彼らは明日も発電所の後始末をするために戻ってくる。あさっても、これから何十年も先までずっと。

これはチェルノブイリと比べて日本政府の対応はずっと良かったと評価した上での警鐘だ。


原子力発電が理論上で最も効率がいいという意見を見かけた時、ふと思い出すことがある。
理論上で最も効率の良い社会は、おそらく巨大な政府機関が全ての物流を無駄なく制御する世界だろう。それが現実に困難であることは、二十年前の社会主義大国の崩壊という歴史で知られている。
キューバのように、ある程度の小国なら社会主義的な政策を続けることも不可能ではないだろう。しかし世界を二分するような巨大国家が経済も社会体制も一括して統治することは、リスクが大きすぎたし、管理の困難さから非効率もまねいた。そうして起きたのがチェルノブイリ事故だった。科学による知見でえられた技術をどのように選択するか、それもまた施政側と市民の仕事であり、責任だろう。

*1:コメント欄で「security of supply」は「平和のみに利用される」ではなく、「安定供給」と翻訳するべきではないかという指摘があり、翻訳者もその可能性を認めている。

*2:注意しておくと、科学者は市民としての側面も持つ。