エントリタイトルの時点で、前回*1に注意した部分が理解されていない気がする。「読者が考える契機になるかどうかは読者次第だ」等も。
はてな
私は、一人の受け手にすぎないのであって、あらかじめ注意書きを記せる立場でも、特権的な注意書きを付与できる立場でもない。送り手の発想で反論されるのは筋が違う。
たとえるなら、表現を受け取った個々人が作品に様々な付箋を張っているわけ。その付箋が気に入らないと思えば別の付箋を重ねればいいし、説得力ある批判ができれば剥がさせることもできるだろう。もちろん政治的な内容に限る必要はなく、面白いとか対価を払うとか単純な付箋が劣っているわけでもない。そうやって個々人が自分なりの付箋……つまり反応を作品に張り重ねていくことが、作品にとっても悪くないことだと思う*2。
そして個人的な話として、かつては政治的な種類の付箋を張ることに忌避する感覚を持っていたが、明らかに誤っているような政治的付箋を張る人々を多く目にして、忌避するのをやめたのだ。
虚構と現実の区別をつけた上で、現実サイドの判断で差別主義者であることは可能だろう。
その話を出す意味がわからない。前回は虚構と現実の区別をつけられていない人々の話をしたのであって、そうでない人にはそうでないなりの対処をするだけ。
その口の持ち主が現実サイドで行っている差別を批判すればいいのであって、同じ口の持ち主の愛好する虚構を叩く理由にするのは、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の理屈だ。この当たり前の反論を貫くことこそが、規制の口実を与えないために必要なことだ。
もちろん、虚構自体を批判すべきなどという単純な話はしていない。
あくまで差別に繋げるような「読み」を批判するという話をした。そして「読み」を批判する場合に、対象となった虚構から差別性を読むこともあると書いた。さらに、差別性を読み取れたとしても、そのまま虚構への批判に繋がるわけではないということも注意した。
差別性に無頓着な作品が存在して*3、その読者が素直に受け取って差別を行っている場合、その要素*4に作品があると指摘することまで許されないのだろうか。いや、現に差別性が指摘されているわけで、その指摘を呼び込む一因として作品を差別に用いる例もある以上、その指摘が筋違いにならないようするには先んじて政治的な読みを選択する以外にあるだろうか。それともNaokiTakahashi氏には政治的な読みの存在を無視することで、流布される政治的な読みを消し去る勝算があるのだろうか。私には思いつかない。
あと、注記で書いた手塚作品における注意書きの話について。
補足しておくと、前回に比較対象として想定していた注意書きは、フィクションという断りだけして済ませるような例。手塚作品の注意書きが至高とは思わないし、そもそも必要充分な注意書きがあるとは思わない。
手塚治虫作品の巻末のアレこそが、作品の固有性を無視した注意書きの最たるものじゃないか。実際他の古い作家の漫画単行本の注意書きにも普通に使いまわされていて、もはや表現としても紋切り型の、まさしくただの裏書と化している。外の人向けのアピールにはなるとしても、個別の作品評としてはまったく機能しないものだ。
全く同じ文面を使いまわす態度自体は賞賛できるものではないという考えも、特に送り手の立場からいえば、当然だと思う。
くりかえしになるが、受け手の立場として評価するのは、ただ注意書きだけで完結してはならないことが注意されていることと、文面自体は使い回しでも作品それぞれに固有性があることを意識していることから。つまり、注意書きが個別の作品評になっているという話ではなく、個別の作品評が必要という問題提起を注意書きしているという話。
もちろん、現状では紋切り型としてしか受け取られていないという感覚もある。だからこそ、私は政治的な読みを忌避しない態度を選ぶ。
彼の思想的態度が評価されているが故に自主規制されないのだ、などという論じ方は欺瞞もいいところだ。
そのような主張はしていない。むしろ話は逆で、安易に自主規制しないという態度を評価しているわけ*5。注意書きの文面が比較的に安易でないということしか、前回の注記では書いていない。
また、手塚漫画において今日の水準で問題視されうる差別的表現の全てが作中において明示的に読者が考える契機となるように作家の意図の下に描かれている、とまではちょっと言えないのではないかと思う。
執筆や修正された当時の水準でも、差別性に無頓着な手塚作品はあると思っている。加えて、注意書きにも時代性の限界が言及されているように、社会の動きによって当時では気づかれにくかった差別性を読み取ることもできるようになったと思う。
しかし、それこそ作家が意図しなくても、読者が考える契機には充分になりえるはず。そして、社会の動きによって新たな政治性が読み取られるようになった場合、それを無視するのではなく指摘することこそ、作品を政治的な観点*6で現在に通用させる一助になると考えている。