法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

今はこれがせいいっぱい

基本的に送り手ではなく受け手だから、どうしてもNaokiTakahashi氏とは異なる立場と自覚していう。
はてな

俺の場合、嫌っているのは、政治的な読みを一段高尚なものとしてありがたがる風潮なんだよね。だから政治的でない読みを押す。俺のフォーマリズムとは、つまりそういうことだ。

もちろん、政治的な読みは一つの切り口であって、他の切り口の上や下にあるものではない。政治的な読みにのみ注目するなら、創作物である必要はないと思う。
加えて、他の切り口を推す気分も、ある程度わかるつもり。別ハンドルで感想サイトを作っていたころは、政治的な話をできるだけ書かなかった*1。サイト全体でも時事問題自体を全く話題にしなかった。興味はあったが、意識的に抑えていた。
しかし、政治的な切り口で見て強く楽しめる物語も多いと思う。
さらに、差別の道具として作品を持ち出す言説をネットで何度も目にして、考えが変わった。すでに誤った政治的な読みが与えられてしまっている場合では、批判することこそが作品の立場を流動化*2させうるのではないかと思うようになった。それを実行してみて、たとえ同じ政治的な読みでも切り口が違うから、作品の異なる魅力を示せると感じた。
『カレイドスター 新たなる翼』第43話 ポリスの すごい プロポーズ について - 法華狼の日記
もし、他の切り口で、誤った政治的な読みを圧倒するだけの批評が書けたなら、あえて政治的な読みを選択しなかったかもしれない。


さらに少し以前の話題……表現規制関連に関連して書くと、できるかぎり創作表現は規制したくない。法律でも自主でも。それを前提として、様々な物語が差別に繋がるから規制するという理屈自体も否定したい。ここで否定したいのは「繋がるから規制する」ではなく、「物語が差別に繋がる」という部分。
しかし、虚構と現実の区別がつけられるから差別に繋がらないと主張する当の人々が、同じ口で差別する例は多々ある。具体的には、『ヘタリア』を擁護しようとして韓国を差別する発言をしたり、『レイプレイ』を擁護しようとして女性を差別する発言をしたり……少数ではあっても大きな声となり、規制の口実に使われかねない。何より、少数であっても差別は許されない。


それでは、物語を差別の道具に用いさせないため、何をするか。
まず「物語が差別に繋がる」もまた、別方向ではあるが、すでに政治的な読みが与えられてしまっているわけだ。だから、その政治的な読みが正しいかを考える。
たいていは物語が差別を推奨しているとは読めないことが多いので、率直に誤読であることを批判する。物語を用いて差別する者、物語に差別が表現されていると批判する者、両方への批判になる。
一方で、物語から差別性が読みとれることもある。作者の意図からすれば誤読でも、社会の差別性を無意識に反映していたり、描写の稚拙さから差別性が読み取れることは多い。物語を優先して家父長制や郷愁を安易に肯定してしまったりする。この場合、むしろ作品の差別性を掘り起こし、何が問題なのか、どう差別と感じられるかを示す。つまり、真に虚構と現実の区別をつけて作品が差別に繋がらないようにするわけ。
『ブラックジャックによろしく』【精神科編】9巻〜13巻 - 法華狼の日記

恋愛描写で精神病者に聖性を求めるかのような展開があったり、モデルとおぼしき現実の事件との区切りが弱かったり、感動できる物語性が現実との距離を美化で失いかねなかったりと、疑問点もないではない。

瑕疵と思わせる部分の読み方を注意することで、作品の魅力的な部分が浮かび上がるかもしれないし、ひるがえって現実の差別に深く切りこむことができるかもしれない*3。作品が社会の反映であることを示すことは、むしろ作品の価値を高めることと信じる。
たいした力があるわけではないし、逆効果になることも多いだろうが、今は無駄ではないと信じている。

*1:実際には「作品」がそうであるように、あらゆる「感想」も政治的な要素を持たざるをえない。ここでは現実での具体的な政治状況、政党名に言及しないという意味。

*2:念のため、政治的中立とは違う意味。NaokiTakahashi氏のいっている意味とも少し違うが、イメージとしては「その自由な批評のせめぎあいに芸術が宙吊りになっている状況」に近い。

*3:その意味で、作品の固有性を無視した自主規制や注意書きは、現実の差別から目をそらしているだけと感じる。この点では、手塚治虫作品の注意書きが、同じ文面を使いまわしているものの完成度が高い。生前の手塚治虫が表現のため戦った歴史が積み重ねられていること、個々の作品に固有性があることを意識していること、読者が考える契機になることを求めて注意書き内で完結していないこと、といった慎重さがある。