法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

佐藤亜紀インタビューズ回答が面白かった

過去に「反社会的」な表現をどのような意味で批判していたのか、それもうかがえる内容になっている。
http://theinterviews.jp/tamanoir/1977778

まず最大の問題は、(あなたのだらしない言葉遣いに従うなら)「道徳的」であることと「不道徳」であること、「社会的」であることと「反社会的」であることは、作品の美的な評価においては何ら意味を持たない、ということです。殊更に「不道徳」や「反社会性」を持ち上げるのは、「道徳」や「社会性」を持ち上げるのと同じくらい意味がない。

手っ取り早く効果を上げたくて「不道徳」かつ「反社会的」な題材を「不道徳」かつ「反社会的に」描くことを選んだ場合、社会との間に問題を引き起こす可能性は当然、増大します。特に頭の悪い創作者がお手軽にロックンロールだと思いがちな、人種、性、宗教に対する攻撃的な表現は、当然、対象とされた人々の怒りを招くことになります。これは表現の問題ではなく、政治の問題です。従って、美的な判断としての是非とは全く異なる政治的な裁定が下されることも、当然、あるでしょう。それが「社会を良くする」方向に向かうのかどうかは、個々人の政治的立場によって判断が異なります。たとえば反ユダヤカリカチュアを自慢顔で公表した表現者が何らかの規制に引っ掛かったとしても、自業自得だと嘲笑する人は当然いるでしょうし、それは必ずしも間違いという訳ではありません。

創作論として面白かったのが中盤の指摘。

特にどうしようもなく無意味と私が感じるのは、「道徳」の「不道徳性」や「不道徳」の「道徳性」、或いは「社会性」の「反社会性」や「反社会性」の「社会性」を得々と指摘する類の作品です。はっきり言ってそれだけでは何を造ったことにもならない。そんなことで凄えすげえと喜ぶのは中学校くらいで卒業していただきたいものです。純技術的に言うなら、「道徳性」「社会性」を描いて作品にすることの難易度の方がはるかに高い――これは、ドストエフスキーを読んだ方ならお分かりの通りです。

個人的には、榎戸洋司脚本が目指してきた方向性と同じものだと感じる。正しいことを率直に正しいと表現することほど、受容しにくいことはない。うまくしないと同語反復のような、あえて表現することの意味を感じにくい作品に堕しそうだ。
正しいことを率直に正しいという物語を書くように、もし私が宿題を出されたら、まず正しいことの悪さを中盤まで印象づけて、そこからひっくり返すような方法を選ぶだろう。


ちなみに先日から佐藤亜紀『雲雀』を読み進め中。短編集らしいので、暇を見て読み進めるには良いかと思ったのだ。
最近は流行しているライトノベルばかり雑多に読んでいて、オノマトペに満ちた冗長な文章に飽いている*1。そのおかげか、硬質な文章が逆に読みやすいと感じた。状況や設定の説明で字数を消費するような愚をおかしていないことは当然として、難解な言い回しも意外と使われていない。
内容自体は流行のテンプレートを使っていないだけで、かなりライトノベルっぽく感じるが、この感想は悪い意味ではない。表紙や口絵を適切な漫画家やイラストレーターに描いてもらうか、あるいは十年前くらいの講談社ノベルズみたいにブランド化されたレーベルで作品を発表するか。そうすれば、もっと広い読者層を獲得できるのではないかと思える。

*1:よくインターネット上で嘲笑されるような表現は、必ずしもライトノベルの平均ではないとも思うが。