端的な感想として。下記の比喩が象徴している。
革命的非モテ同盟跡地
たとえば、ある程度小さい子供を持つ親ならば、隣の家に住む28歳の独身男性労働者のfさん(仮名)が山と積まれたエロゲーやエロマンガ(ロリモノが多い)やエロ同人誌に囲まれて暮らしているということを知ったならば、おそれおののくでしょうし、死んでくれと思うかもしれません。下手すれば、地元のスクールガードの皆様のところに手配書が回って要監視対象にされてしまいます。
ここで、この28歳の独身男性のfさん(仮名)が、必死にエロゲーやエロマンガの芸術性や哲学的な解釈やLOの意見広告*5的なことを述べて申し開きをしたところで、余計にキモいと思われて、マジ死んでくれと思われるに違いありません。正直、fさん(仮名)は生きていて申し訳ない気持ちでいっぱいです。
たしかに、エロゲーをめぐる全体の議論は『レイプレイ』という作品に端を発している。しかし騒動の一端は、furukatsu氏が南京事件と『KANON』を自らの意思で比較したブックマークコメントにある*1。
つまり上記の比喩に当てはめるなら、近所の人が立ち話をしているところにfurukatsu氏が近づいていったとするべき。自分が噂されているとでも思ったのだろう。そこでエロゲーの話などされていないことを知ったはず*2。だがfurukatsu氏は近所の人へ聞こえるように「あなたがたが会話している内容より、私はエロゲーが気になります」とつぶやいた。……これでは、エロゲーが好きといおうが、アニメが好きといおうが、ジブリが好きといおうが、オペラが好きといおうが、スイーツが好きといおうが、反感を持たれて当然だろう。
もし、近所の人に聞こえないようにつぶやいたなら、反発を受けることはなかったに違いない。はてなブックマークは、コメントをプライベートモードにして隠す機能がある。
それでもブックマークコメントに注目された当初は、釈明の選択肢がいくらかあったと思う。
「あなたがたが会話している内容は重要と理解しているが、娯楽ほどの実感すら持つことができない。こういう理性と感情の齟齬こそ、問題が解決できない一因ではないでしょうか」とでもいえば納得されたかもしれない*3。実際に、そういう意図で不器用に発言したのだと想像していた。
しかしfurukatsu氏は様々な釈明の選択肢を放棄し、ただ表現の自由があるむねのみを掲げた。そして、自らが求められていないのに発言したことを忘れて、相手が勝手に話しかけてきたかのような態度をとっている。
エロゲーを自室で誰にも見られないよう楽しんでいるなら、近所の誰も文句をいわないだろう。パソコンショップで購入したりしても、今回のような形で批判されることはないと思う。しかしエロゲーのパッケージをかかげて近所を歩きまわり、「私はこれが好きです。これを楽しむ自由があると演説させてください。しかし反論は受けつけません」と道ゆく人へ話しかければどうだろうか。
だから「id:furukatsu」は消去するべきなのだ。もちろんfurukatsuというIDをとって日記を書いたりブックマークを使用している人間が消える必要はない。
ただ、誰もあなたの話をしていないのに、勝手に話しかけてきて被害妄想をいだくようであれば、あなた自身の精神的な平和を得るため、ネットに接続して発言するべきではないという忠告だ。
さて、今回の論争を見ていて、個人的に困惑させられるのが、エロゲーの素晴らしさを語るつもりがない、語っても道義的に敗北が必至と考えているかのような態度だ。自分が好きなものくらい、自分なりに理由を語れないものだろうか。
戦後マンガを築いて導き発展させた手塚治虫達が、どれほど表現の規制と戦い、理論武装を重ね、対立する立場と折衝しただろうか。男女の接吻すら問題視された過去のマンガと現在を比べて、戦いが全くの無駄だったとはいわせない。
また、表現の完成度が低かったとして、それを認めることは必ずしも敗北にはならない。何人かが指摘したように差別性を批判する共通理解が期待できたり、その共通理解を導くような解説を付記することで、明らかに差別的な表現を公然と露出する例はあまたある。
ただし、作家にそのような戦いを強いれば、創作の時間が削られるという擁護はある。ならばこそ、受け手が戦いに協力するべきではないか。好きと表明してしまった以上、無駄とわかりつつ蟷螂の斧を上げざるをえないだろうし、上げずにはいられないと思うのだが。
私も機会があれば、監督が様々な罵倒にさらされた劇場版『AIR』の素晴らしさをこんこんと語ってみせよう。原作ゲームで遊んだことがないので、原作ファンからの批判に対する再反論としては弱くなるだろうと思うが。
最後に、別の人もどこかで書いていたが、名誉毀損など規制の線引きをして、それが固定されているという発想が最も危ない。差別も表現も不断に問い直されるべきものであって、たとえ仮の線引きがあるとしても、常に書き直されると考えなければならない。
手元にないので記憶発言となるが、森達也『放送禁止歌』では、歌が禁止されていると思われていた状況に何の根拠もなかったという事実が明かされている。禁止されるべき歌のリストに法的根拠がなかっただけではない。そのリストはとうの昔に発行が終わっていて、現在ではリスト発行元すら責任を取れない状態だったのだ。線引きが固定されているという発想が、ありもしない線引きを存在させ続け、むしろ表現を過剰に規制していたという一例だ*4。
表現の正しさを別ける線引きは、様々な意見が均衡する位置に置くしかない……少なくとも、今の社会では次善の策だ。もちろん、バランスを取れといっているのではない。バランスが取れる中心点を確信できる人間など存在しないのだから。ぎりぎりの議論を戦わせて、様々な角度から論じて、その張り裂けそうな均衡に線を引くしかない、そういうことだ。
*1:http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090602/p1
*2:http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090601/1243838801
*3:ただし実感を持てないことが主観にすぎないからといって、必ずしも批判されないわけではない。別エントリで記述。
*4:より正確な内容はこちらを参照http://d.hatena.ne.jp/T-3don/20081214/1229261607/