法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「地続き」という表現に疑問符をつけるなら、逆に「お仲間」という表現も避けてほしいところ

タイトルが全てで、以下は長い補足。
はてなブックマーク - 暗い森まで続く地続きの道 - 法華狼の日記

NaokiTakahashi まあ俺も「レトリックの問題」だと言ってるからね。つまりあなたたちの表現の選択がことごとく規制派の粗雑な物言いを利することに文句を言ってるの。一歩踏み外せば奴らと同類だし、実際お仲間に踏み外してる奴も。 2009/11/06

id:NaokiTakahashi氏が私の「お仲間」と想定しているだろう人は、必ずしも意見を共有していないし、私が自主規制論議で他から意見を引いたことは少ない。もともと私が左翼という立ち位置にあるのは、表現の多様性を主張するためであって、単純に表現を規制するべきという主張をしたことはない。
たとえばid:furukatsu氏を批判するきっかけとなったid:Apeman氏とは、表現規制でも問題意識が重なっていたり、主張を理解している部分も多いつもりだが、社会問題を物語化して「実感」を獲得する意義については見解が異なっている。「物語」を社会問題に奉仕させるべきではないと単純に要約すれば、むしろ私よりNaokiTakahashi氏とApeman氏の見解が近いとすらいえる。もちろんそれぞれの理由は違うが。
そもそも、死した英雄には鎮魂の花束を - 法華狼の日記では「評価できる行動を導いたパーソナリティが、他方で評価できない行動を導く種になることは、例外的な状況ではない」と地続きであることと評価を線引きすることは別と注意している。しかも補足先である英雄が殴られるまで - 法華狼の日記は、個別の言動に対して個々の妥当性を論じるべきということが主題だ。


ただ、私は強固なゾーニング推進論者ではある。ゾーニング表現規制の一つととらえる観点からいえば、表現規制論者に位置づけられるかもしれない。
ゾーニング、それもメタテキストでの注釈や、フィクション宣言を重視する理由については、いずれ書くつもり。まわりまわって歴史修正主義疑似科学の話とも関わる予定。