法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ドラえもん』ジャイアンVSメカジャイアン/きつねにつままれた話

アニメオリジナルの前半と、後期原作を再映像化した後半と。


ジャイアンVSメカジャイアン」は、のび太スネ夫ジャイアンに対抗するため、秘密道具でメカのジャイアンを作る。しかしコントロール装置をつけなかったため暴走し……
鈴木洋介脚本、高橋敦史コンテ、腰繁男演出。パワーワードなサブタイトルだが、内容はかなりシンプル。メカジャイアンに力で対抗するため、最初の敵だったジャイアンにたよる展開や、歌合戦の果てにたどりついた境地まで、キャラクタードラマとして怪獣映画パロディとして普通によくできていた。
メカジャイアンのデザインはメカゴジラチックで、秘密道具が出したプラモデルのような状態から組み立てる楽しさから、アイセンサーから汚れをぬぐうワイパーなどの機能の細かさで、アイデアたっぷりに楽しませてくれた。
しかし作画の見どころが散らばりつつも、短編なのに高低差が大きくて、映像スタイルが変わっていたのが不思議。序盤はいつもよりキャラクターの影が少ないと思ったら、終盤だけキャラクターに入念な影がつけられたり。


「きつねにつままれた話」は、比喩表現を実体化する秘密道具が登場。珍しく勉強しつつも悩んでいるのび太の、喜怒哀楽の様子が画面いっぱいに誇張されていく……
原作のサブタイトルは秘密道具の名前からとった「具象化鏡」。2010年に「のび太の耳にタコができる話」というサブタイトルでアニメ化されたが、比喩表現の具象化がダジャレと混同されているアレンジが疑問だった*1
今回はきちんと比喩表現だけを具象化。いくつかのアニメオリジナル具象化も、物語の流れにそったもので、ギャグを優先した不自然さがない。結末の風景も雄大で、のび太の努力と成長をたたえる新学年向けのストーリーを、よく映像として支えていた。
ジャイアンの野球に参加させられるアニメオリジナル描写も良かった。スネ夫の内心が具象化されたことからジャイアンの矛先がそれる展開に説得力があったし、「真っ赤な嘘」と「ゴマすり」を同時に体現することを止められないスネ夫の姿も笑えた。

『映画ドラえもん』の舞台挨拶に声優が登壇しなくなった謎

id:shinchu氏が署名サイトchange.orgでキャンペーンをはり、疑問点をまとめている。
キャンペーン · 【拡散・賛同希望】 映画ドラえもん舞台挨拶にレギュラー声優陣の登壇復活を!大山のぶ代さんらの代からの恒例行事をこのまま潰さないで! · Change.org

2016年の『新・のび太の日本誕生』以降、完成披露試写会と初日舞台挨拶に、ドラえもん役・水田わさびさんを始めとするレギュラー声優陣が登壇されていないのです。

作品ごとに監督が交代しているのに、レギュラー声優が登壇しないことから、大きな立場で決まった方針らしいことがうかがえる。
キャラクターの中身を子供に見せたくない方針にしては、ゲスト声優タレントは登壇していることが謎。同じ小学館の子供向けアニメ映画ではレギュラー声優が登壇することが通例ともshinchu氏は指摘している。

程度の差はあれども、『クレヨンしんちゃん』も『名探偵コナン』も『ポケモン』も、ゲストとともにレギュラー声優も登壇されて挨拶されています。なぜ『ドラえもん』だけこんなことになってしまっているのか理解に苦しみます。


まず、これが監督か声優のどちからしか登壇できないのなら、私としては作品全体について語れる監督が登壇してほしいとは思っている。
声優はキャラクターの印象を決定づける重要な仕事でありつつ、実写作品の俳優と比べても最後のしあげだけ担当する部署。声優しか参加していないオーディオコメンタリーを聞くと、作品について語れることがなくなって声優個人の雑談になってしまうことがよくある。
とはいえ、舞台挨拶ならば監督と声優の両方が登壇できないとも思えない。キャラクターイメージが定着した作品の性格からしても、声優が映画の見どころをコメントしたり決め台詞を演じるだけでイベントとして成立するだろう。
なんらかの公式のアクションがほしいという心情は理解できる。