法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『映像の原則』は間違っている?

上手と下手の話。
アニメーション学科 | KOUGEI PEOPLE

映像演出について従来は、以下のように言われてきました。
『右(上手)から左(下手)に向かって移動する映像はこれからどこかに向かって「行く」ところに見え、逆に左(下手)から右(上手)に移動する映像はどこかから「帰ってくる」ところに見える。』
『右(上手)から左(下手)に向かうのは主人公に見え、左(下手)から右(上手)に向かうのはその主人公に相対するキャラクターに見える。』
「それって、本当?」というのが、三善ゼミアンケート調査の目的です。

調査結果についての詳細は省きますが、全体としては昨年度の結果と殆ど変わらず、左(下手)からでも右(上手)からでも、受ける印象に殆ど差を認めることができませんでした。

もともとオカルトというか、一定の基準を決めておいて、演出しやすくする方法論にすぎないと思っているし、それでいいと思っている。つまり登場人物の名前をつける時、動物や植物や色から引いてくるようなもの。何の基準もないと、逆に創作しにくいものだ。

7月29日(金)に行われた発表会には、工学部の先生や学生も大勢来てくれて、大変熱心に話を聞き、また積極的に質問もしてくれました。
調査方法についての御提案も沢山頂き、これについては是非今後の調査に活かしていきたいと思っています。

ただ独立したカットで上手下手の印象を問うのではなくて、上手と下手に意味づけした映像を見せた後に、独立したカットを見せて印象をたずねて見てはどうなのだろうか。
ずっと主人公が左から右へ進んでいく映像作品の終盤で、主人公が右から左へ進むカットと、主人公が左から右へ進むカットを見比べさせれば、さすがに印象が異なってくるような気がする。つまり、本能や文化のレベルでは印象が変わらなくても、演出の「原則」ではなく「記号」として用いることには、意味がありうるのではないかと思っている。

『境界線上のホライゾン』第1話 境界線前の整列者達/第2話 食事場の清純者

川上稔による原作は未読。


初回は、雑多なキャラクターを追いかけっこで順番に見せ、それなりに娯楽っぽくまとめていた。とりあえず一話完結分の目標が最初に提示され、それが回収されるまでを描いているので、造語だらけ多人数のアクションでも、それなりに見ていられる。
とっかかりすら不明確だった『いつか天魔の黒ウサギ』と比べて、30分アニメとして最低限の筋をきちんと通している*1。キャラクターが軽くてシリアスさの欠片もないところも、逆に良かった。
いかんせん背景設定はナレーションであわただしく説明するという手法で、相当の無理を感じたが。日本だけが無事というところは、説明がほしいところ。偶然と断言されるならそれでもいい。


そして第2話を見て気づいた。ようするにこれ、21世紀のあかほりさとるだ!
独自設定の多さとか、コメディチックな主要登場人物のかけあいで進む物語とか、半端に重い背景設定とか、たまにハードSFやファンタジーへの目くばせが入るところとか、あざといエロサービスとか、性別いじくりとか、どこかデジャブを感じると思ったよ!!
いや、もちろん原作は未読なので小説が似ているかどうかはわからないが、少なくともアニメ版に限ればあかほりアニメを思い出さざるをえなかった。