法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

日本社会における、言論や表現への弾圧と批判をわける基準

日本社会によって弾圧されてきた言論や表現が、自由を求めて抵抗する報道がつづいている。
『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める | 週刊金曜日オンライン

尋問で「そう訴状に書いてあるのか」と問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。金さんの記者会見を報じた韓国『ハンギョレ』新聞の記事を著作で引用した際、「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた。

大阪市、米サンフランシスコ市との姉妹都市解消 「慰安婦」像めぐり - BBCニュース

ブリード市長は声明に、記念碑は「奴隷化や性目的の人身売買に耐えることを強いられてきた、そして現在も強いられている全ての女性が直面する苦闘の象徴」だとも記した。

「彼女たち犠牲者は尊敬に値するし、この記念碑は我々が絶対に忘れてはいけない出来事と教訓の全てを再認識させる」

もちろん、これだけで日本社会におけるひとつの言論や表現の自由が守られたと安心していいわけではない。
植村隆氏については、デマと脅迫により大学教授の内定をとりけされ、非常勤講師の職も失ったままだ*1。それでも名誉棄損裁判を戦って、ようやく相手に誤りを認めさせただけで、名誉回復に充分な判決と報道が出るとは限らない。
記念碑については、もともと日本社会の影響下にない米国でのこと。外国の表現への抑圧は大阪市どころか外務省もくわわっており、何度も失敗しながら動きを止めず、一部では弾圧に成功している。下記の書籍がくわしい。

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

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こうした公権力や暴力をもちいた表現や言論への弾圧を認識していると、あくまで批判や要望にとどまる言説まで弾圧ととらえる認識との乖離に、いくつもの断絶を感じざるをえない。
上記のような言論や表現への弾圧は、けして隠れておこなわれているわけではない。むしろ公権力や報道も加担して、そのふるまいを堂々とさらけだしている。
外務省による圧力は菅官房長官が記者会見で肯定的に語るほどだったし*2、それと連携する民間団体の弾圧活動で杉田水脈氏は安倍晋三氏に見いだされて国会議員へ返り咲いたようだ*3。現在の日本政府ははっきり表現や言論への弾圧をつづけている。
それでも、親しんでいる表現がかかわった時だけ弾圧を認識できることは、原理的にしかたないところもあろう。しかし上記の公権力による弾圧に賛同や許容をしながら、自身が親しむ表現だけが弾圧されているという被害者意識を見かけることも、残念ながら少なくない*4
他の弾圧を認識しないことで敏感になったのか、反論を要する批判が向けられることや、労力を避けるように安易に表現をとりさげる*5ことまで、「弾圧」にふくめるという基準が用いられたりする。


逆に、公権力による表現や言論への弾圧をよく知っている側も、「弾圧」と評価する基準がはねあがるところがあるのかもしれない。
デマにもとづく脅迫を受けたことで大学が守ることを放棄して、国内での仕事を失うという弾圧。脅迫という行為はさすがに賛同しなくても、根拠となったデマには加担して、失職という弾圧の結果を当然視する人々は、ジャーナリストや大学関係者にも少なくなかった。
専門的な書籍から引いた用語解説が後年に不正確とされた時、大学をやめる必要があると主張する人々 - 法華狼の日記
インターネットで流れているジャーナリストによる植村隆バッシングあれこれ - 法華狼の日記
デマの源流は現在の与党政府の中枢に近しい人物で、思想信条の多くを共有している。外務省も、さすがに個人を名指しするかたちは見当たらないが、所属していた新聞社を名指しする*6かたちで国連においてデマの流布をおこなっている。
上記のような「弾圧」すら「弾圧」と認識されない社会を想定して基準をつくるなら、どれほど攻撃的な抗議や妥当性のない批判であっても、民間にとどまる主張が「弾圧」になることは難しい。
もともと抗議や批判もまた、基本的には言論や表現のひとつだ。同じ表現の枠組みで反論すればいいし、その手間をかけるのも惜しいほど批判が自明的に不当ならば反応しなくてもいい。反論の手間をかけさせることや、反応しない判断にも手間がかかることを、表現の自由の限界とみなすことはできるだろうが、それは「弾圧」の基準とは異なる次元の話だ。


乖離した基準を統一することは難しい。
しかし基準は人それぞれ異なることや、認識している弾圧も異なることや、自身の基準が統一されているかは、いまからでも考えることはできるだろう。

さしあたり、朝日新聞に廃刊を要求しながら雑誌『新潮45』の休刊そのものを言論の自由の危機と主張するジャーナリストが、いい反面教師になろう。
これこそが、公権力による弾圧に賛同や許容をしながら、自身が親しむ表現だけが弾圧されているという被害者意識の具体例である。

*1:ただ、韓国の大学にまねかれたのは、非常勤講師としてつとめていた大学との交流を背景にしており、大学側の一種の妥協でもあったらしい。

*2:外交問題に地方自治体がかかわるのは政府への越権行為だと訴訟をおこした団体が、外国政府から支援されようとしている不思議 - 法華狼の日記

*3:ブルー on Twitter: "【速報】『杉田水脈氏、自民党から出馬』 櫻井よしこ「小池百合子、中山恭子から希望の党に来てくれと、猛烈なアッタクを受けたがそれを断り、自民党から出馬する事に。安倍さんが杉田氏は素晴らしいと。希望の党に希望を持つことができない。しっかりした自民党から出たいと、筋を通した」… https://t.co/Fdl15EgLxQ"

*4:より巧妙な事例として、著名な法哲学者が、表現の巧拙と主題への評価という基準を恣意的に選択するのを見かけたことがある。「表現の自由」を語る自由 - 法華狼の日記

*5:この場合、表現者個人の選択ならばともかく、表現を載せる媒体には表現者を守る責任がある。そこで抗議に屈した媒体は、表現の自由を毀損したと考えるべきだろう。東京都美術館から政治性をおびているとして作品が撤去された背景について - 法華狼の日記

*6:日韓合意については、日本政府が過ちをおかしたか、合意そのものが過ちか、今のところ二択だと思っている - 法華狼の日記で引用した杉山氏の発言。