法華狼の日記

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TVアニメ『ドラえもん』の「ことばきんしマーカー」を賞賛する記事に、いくつかの賛同と疑問

その物語は、日本エレキテル連合流行語大賞を思わせる「ダメ」を連呼するピアノ指導者から、しずちゃんのび太が守ろうとすることに始まる。
それをライターの荒井禎雄氏が「言葉狩り」を風刺した物語として、賞賛していた。
息子が見ていたTV版ドラえもんのお話が的確かつ鋭利すぎて……|荒井禎雄|note

先日見ていたお話の内容がとても鋭く、「オトナにこそ広めたい内容」だった。

2014年1月31日放送「ことばきんしマーカー」
https://www.tv-asahi.co.jp/doraemon/story/0354/

最初に私の感想を書いておくと、たしかにアニメオリジナルストーリーのなかで完成度の高い部類に入る。
『ドラえもん』地球脱出計画/ことばきんしマーカー - 法華狼の日記

マーカーで赤線を引いた言葉を使うと雷が落ちてくるという秘密道具が登場。原作に出てくる「十戒石版」のアレンジといったところか。最初は善意でルールを強要していきながら、徐々にルールが自己目的化して自滅するというパターン。

しかし言葉を禁じる道具ゆえに、言葉面だけ整えて皮肉で応じたり、ついには口をきかなくなるという展開はオリジナリティがあって面白い。頭ごなしに否定する発言まで教育的と擁護するかのような部分は気にかかったが、ポイントではないので目をつぶれる範囲。

当時に書いたように、のび太の善意で始まり暴走するという定番を、アニメオリジナルの秘密道具でていねいになぞっていた。
原型的な短編「十戒石版」もあるが、後半から大きく展開を変えていて、異なる味わいが生まれていた。


ただ、荒井氏は定番部分を賞賛しているのだが、そこは作品を見なれた視聴者には、さほど加点できるところではない。

何よりリアルで怖いなと感じるのが、当初の動機こそ「しずかのため」であったが、すぐに「のび太の感情」が全ての価値基準となった点だ。

子供向けに教訓をこめやすいためか、しっぺ返し展開は一時期に多用されすぎて見飽きている。原作後期にはパターンに自覚的な描写もあるくらいだ。
前後して荒井氏が「白眉」と評しているように、やはりジャイアンスネ夫が褒め殺しを始める場面こそが「ことばきんしマーカー」の見どころだろう。

この回のシナリオで白眉だと感じるのは、ジャイアンスネ夫の煽りを受けて、のび太が「誉める言葉すら禁止ワードにしてしまった」事だ。

もちろんこれは「言葉狩り」の一側面をとらえた風刺であろう。同時に、どのような言葉でも意図や文脈によって侮辱や差別となることの風刺と読みとれる。


だからこそ、規制がきわまった後のジャイアンスネ夫の行動を、荒井氏が「対処法」と表現したことには、いささか解釈の違いを感じざるをえない。

後半に差し掛かると、ジャイアンスネ夫のび太に対して更なる対処法を見せ付ける。街の惨状を見て凹んだのび太が、自ら2人に寄って行ったところ、完全に無視。去り際に「余計な事を言うと雷が落ちて来るから、もうお前とは話さない」と吐いて捨てる。

ジャイアンスネ夫は、のび太が言葉の不自由さから孤独になることまで意図して褒め殺しをおこなったのだろうか? そうは思えない。
意図して言葉を不自由にしたなら、去っていくふたりはもっと嘲笑的な表情をするのではないだろうか。
のび太は先にコミュニケーションが失われた街を見ている*1。ふたりが去ったのも街の惨状の延長であり、特異な個人攻撃ではない。
そもそも、ふたりは褒め殺しをした時に笑いながら去っており、のび太が誉め言葉まで規制する場面は見ていない。
ジャイアンスネ夫が愉快犯として規制を煽った結果、ふたりも望まない領域まで言葉をしばられた……そういう顛末に私には見えた。
逆にジャイアンスネ夫の視点の物語ならば、のび太をからかいすぎた反省が描かれてもおかしくないところだ。


作品全体についても、原作者らしさが失われていないと荒井氏は評しているが、しっぺ返し構成は定番として飽きられたためか減っている印象がある。

風刺の効いたブラックな話をやってるんだなあと、藤子不二雄作品の何たるかが失われていない事に感動してしまった。

実のところ、風刺性の強いアニメオリジナルストーリーそのものが少なくなっている。どちらかといえば、既存の秘密道具をくみあわせた冒険譚が多く、教訓的なエピソードより完成度が高い印象がある。
もちろん、2005年以降の『ドラえもん』のアニメオリジナルストーリーで風刺のきいたエピソードがないわけでもない。のび太が反社系ブラック企業をたちあげる「のび太社長になる」*2や、自然に対する距離感の難しさを描いた「しずかちゃんとおじいの木」*3あたりは印象深い。
原作のあるエピソードでは、2017年のスタッフリニューアルSPに選ばれて、憲兵を挑発する場面をそのまま映像化し、インターネットの一部で反発が巻き起こった「ぞうとおじさん」*4や、自由と制限をめぐるアニメオリジナル描写が興味深い「ポータブル国会」*5などがあった。


最後に、『ドラえもん』への賛否を見てきたひとりとして、荒井氏が仮想敵にしている「偽フェミ」とはいったい何なのか疑問がある。

ジブリドラえもんのような作品を「素晴らしいアニメの代表」として引き合いに出す偽フェミ一味だが、こんな話があると知ったらドラえもんすら攻撃対象にするのではないかと思ったのだ。

昔から『ドラえもん』は欲望に甘い児童向け作品として、教育的な観点からは批判されやすいし、フェミニズムからの批判も少なくない作品だ。
特に、都合のいい女性と結婚させるためドラえもんが来たという根幹設定は、原作が時代をへるごとに劇中でもエクスキューズが入っていった。
『STAND BY ME ドラえもん』 - 法華狼の日記

連載をかさねるにつれ、人の心をあやつる問題が何度となく批判されるようになり、望まぬ結婚相手だったジャイ子をフォローする描写も増えていった。結婚相手が望む相手のしずちゃんに変わった原因も、のび太の成長によるものというより、のび太の愚かしさが哀れみを受けたという要素が大きい。

やがて原作者は新作『チンプイ』の根幹で、『ドラえもん』を反転する。それは王子との結婚をせまる異星人が、拒否する少女の人格に好感をもって同居するという設定だ。

藤子・F・不二雄大全集 チンプイ (1)

藤子・F・不二雄大全集 チンプイ (1)

ついでに、同じスタジオジブリ制作といっても、宮崎駿作品と高畑勲作品では作風も社会派テーマのあつかいも全く異なっていて、フェミニズムにおける評価を同じ水準で考えるべきではあるまい。
たしかに高畑作品は『おもひでぽろぽろ』『かぐや姫の物語』等で意識的にフェミニズムをとりこんでいると思うが、宮崎作品はリビドーが優先されていて必ずしもフェミニズムの評価は高くない印象がある。“宮崎ヒロインはトイレに行かなそう”という批判を受けて『魔女の宅急便』でヒロインが便器に座るポスターを考えたり、あえてヒロインを原案における美少女デザインから変えた『千と千尋の神隠し』のように、意識してエクスキューズを入れることで、強くは批判されないという感じだろう。