法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

浅羽祐樹『韓国化する日本、日本化する韓国』において、「強制連行はなかった」等の事実誤認が「いちいちもっとも」と評されていた件について

下記エントリで予告した問題について、あらためて簡単にまとめておく。
浅羽祐樹『韓国化する日本、日本化する韓国』巻末の読書案内を読んで、池上彰氏と同じくらいの信頼性と感じた件 - 法華狼の日記

浅羽氏の文章は、できるだけ多義的に読めそうな表現を多用している。それゆえ、多義的すぎて事実関係が不明瞭なところがあったり、それでも危ういところを断言してしまっていたりする。

そもそも書籍全体が一般向けということもあって根拠がきちんと提示されていない部分が多く、上記エントリで紹介したように『星の王子さま』の翻訳で日韓の差異を過大に見積もるような問題もあった。
その問題は、書籍の主要な話題のひとつとしてとりあつかっている従軍慰安婦問題においても、しばしば事実誤認を見逃すような記述としてあらわれていた。


該当する記述のひとつが、紛争下の女性の人権問題として慰安所制度がほりおこされた時、有効な手立てを日本がうてなかったという説明だ*1

 日本側としては「強制連行はなかった」「日本だけでなく、戦争中にはどこの国もやっている」「なぜ日本だけが責められるのか」という論旨で、対抗しようとしています。また1965年の合意を盾にして、「文明国家が遡及法を許してもいいのか」とも主張しています。
 いちいちもっともではあるのですが、正直、賢明な対処法ではない。

これは、もっともに見えてそうではないと柔らかく批判するための前振りかというと、そういうわけではない。前後の記述を読んでも、どこまでも「ゲーム」の「ルール」にのっとっていないという枠組みの批判ばかり。それぞれの論旨が事実として妥当かどうかは直接的には論じていない*2
もちろん「軍慰安所はどこの国にもあったの?」や「朝鮮では強制連行はなかったの?」はQ&Aレベルの事実誤認と枠組誤認であって、浅羽氏も研究者であれば切って捨てるべき見解だろう。
1-1 朝鮮では強制連行はなかったの? | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任
0-5 軍慰安所はどこの国にもあったの? | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任
また、同じように枠組批判を優先して事実誤認を軽視している記述として、従軍慰安婦問題を否認する米紙意見広告「THE FACTS」への言及がある*3

「THE FACTS」とは、すぎやまこういち、尾山太郎、櫻井よしこ花岡信昭西村幸祐ら5人の論客たちが、アメリカの主要紙『ワシントン・ポスト』(2007年6月14日付)に、「慰安婦強制連行の証拠はない」として出した意見広告のことです。

ここでも意見広告の各論旨を掲載して、米国には逆効果だったことを指摘しているものの、やはり論旨の事実認識が誤っていることまでは指摘されていない。たとえば意見広告の論旨すべてに反論する『日本軍「慰安婦」制度とは何か』といった手軽なブックレットもあるのに、それを巻末の書籍紹介に入れたりはしない。

日本軍「慰安婦」制度とは何か (岩波ブックレット 784)

日本軍「慰安婦」制度とは何か (岩波ブックレット 784)

意見広告を出した人々を「論客」と表現しているのも、妥当かどうか悩ましい。一応「好んで議論をする人」という価値中立的な語義もあることは辞書に収録されているが*4


前後して、浅羽氏は『したたかな韓国 朴槿恵時代の戦略を探る』という新書も2013年に出していた。
そこでは従軍慰安婦問題に対して日本がとりうるアプローチとして「真実ゲーム」と「外交ゲーム」の2択を提示していた*5

 ひとつは、「真実ゲーム」としてアプローチする方法である。
慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送」において、日本軍による直接的あるいは間接的な「関与」がどのようなものだったのか、その真実を明らかにしようとするのである。特に、「軍の要請を受けた業者が主としてこれに当た」り、「官憲等が直接これに加担したこともあった」(河野談話慰安婦の募集において、人狩りのような「狭義の強制性*18」があったのかどうか、にこだわる。
 もちろん、真実の解明は学問の存在理由そのものであり、私も研究者の端くれとして、この使命に身を捧げる覚悟である。当然、緻密な実証に向けた真摯な学問的取り組みは、今後も続けられるべきである。

*18安倍晋三総理ウェブサイト「慰安婦歴史認識問題」二〇〇九年六月十二日

ここで浅羽氏は「狭義の強制性」という論点もまた「ゲーム」で作られることを考慮していない。さまざまな論点をふくんでいる従軍慰安婦問題において、ひとつの加害証言が疑わしい*6ことをもって問題全体を否認する手法として「狭義の強制性」にこだわる詐術が今もある。そのような現状に目を向けず、歴史学の現時点での見解への言及もなく、はたして「真実の解明」と呼べるだろうか。
また、この記述を先入観なく読んだ人は、慰安婦の募集において狭義の強制性と呼ばれる事例がいまだ確認されていないかのように錯覚しかねない。ここで引用した部分は新書の末尾近くであり、やはり錯覚を訂正する記述などは存在しない。実際は朝日新聞が報じていたように、狩るように女性を集めた事例は前世紀から確認されている*7。その確立された歴史認識すら把握していないのであれば、たとえ端くれと謙遜しても研究者として勉強不足のそしりは免れまい*8
証言の存在を報道でつたえるだけでも責任を負うという考えを採用するならば、浅羽氏は無批判どころか追認に近しい表現で歴史修正主義*9を紹介した責任を負うべきだろう。


いずれにせよ、紹介した浅羽氏の著作2冊は、韓国側のロビー活動やプロパガンダで作られた「ルール」によって国際社会の「ゲーム」で日本側が負けたという見解に立っている。そこに歴史学的な事実の争いでも日本政府が誤っていたという指摘はない。
もし意見広告が出された2007年以前に出版された書籍ならば、思想の枠組みが国際社会に通用しないという指摘だけでも意義があったかもしれない。しかし2013年と2015年、それぞれ出版された時点では、意見広告の逆効果ぶりが広く知られており、女性の人権問題だということまでは日本軍擁護者も少なからず認めていた。同時に、事実認識では日本側が正しかったが韓国側の枠組み設定に負けた、といった被害妄想的な誤認は生きのこった。
たとえば稲田朋美氏は、日本軍慰安所制度を女性の人権問題という観点から他人を批判しつつ、当時は合法だったという自説を撤回しなかった*10
稲田大臣、従軍慰安婦制度について「戦時中、合法であったことは事実」 ~稲田朋美行政改革担当大臣 定例会見 | IWJ Independent Web Journal

稲田大臣「河野談話に関する慰安婦の問題に関しては、官房長官のもとで検討されておりますので、私が所管外のことについて発言することは差し控えたいと思います。

 ただ、前回私が申し上げた、『慰安婦制度が女性に対する重大な人権侵害である』ということは、現在であれ、たとえ戦時中であれ、同じだと思います。ただ、戦時中は、慰安婦制度が、悲しいことではあるけれども合法であったということも、また事実であると思います

インターネットでも同様で、下記エントリのような事例がある。私が批判したid:kari-nekoguruma氏は、女性の人権問題というくくりまでは問題性を認めつつ、具体的な歴史学的な知見は否認した。
nekoguruma氏の露骨な二枚舌をフォロワーは気にならないのだろうか - 法華狼の日記

しかし吉見教授は代表的な著作で公娼制度について検討した後、慰安所制度の問題として第一に軍隊による女性への人権侵害と明確に指摘している*11。吉見教授を「ヴァカ野郎」などと誹謗し、重視されていない証言ひとつにこだわるnekoguruma氏のような態度こそ、「シフト」をこばむものといえるだろう。

浅羽氏の書籍は、こうした論者には情緒的に受け入れやすいかもしれない。ただの現状認識の追認として読むことができてしまうからだ。読者に自己批判させるために甘い記述を選んだのであれば、残念ながら調整に失敗しているとしか私には思えない。

*1:118頁。

*2:一応、従軍慰安婦問題が国際社会で注目された過程において、他の紛争下における人権侵害が問題視されているという記述はあり、「なぜ日本だけが責められるのか」という観念が誤りということは精読すればわかる。

*3:183〜184頁。

*4:論客(ロンカク)とは - コトバンク

*5:181〜182、185頁。

*6:念のため、その加害証言ですら後づけの「狭義」にとどまらない強制連行の多様な実態を問題視していた。吉田清治『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』を読む - 法華狼の日記小見出し「軍令や暴力は強制連行の必要条件ではなかった」を参照。

*7:強制連行 自由を奪われた強制性あった:朝日新聞デジタル

*8:浅羽氏と共著を出している木村幹氏も、このことを知れば朝日新聞を批判したツイートと同じくらいには浅羽氏を批判するかもしれない。木村幹氏は吉方べき氏より先に自分の記憶力を疑うべき - 法華狼の日記

*9:念のため、この用語を否認主義に対してつかうことには「さっさとやめろとしか言いようが無い」「言葉の周囲を這いずりまわる人間には近寄らないのが今も昔も未来もよい」といった主張が一部にあることは知っている。自分から「はてな」に言及しておきながら、リプライされたら「はてな」の文字列が忌まわしいと言い出す不思議 - 法華狼の日記で紹介したid:Donoso氏らが代表。 しかし、浅羽氏自身も否認主義を「修正主義」と著作で表現しており、ここではその用法にあえてならった。

*10:太字強調は原文ママ

*11:従軍慰安婦』231頁。