法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『アクト・オブ・キリング《オリジナル全長版》』

1965年のインドネシアで、軍部に誘導された人々が、西側諸国に支援されて大量虐殺を起こした。
ある者は、ハリウッド映画を奪う共産主義者に対して、ハリウッド映画を真似た方法で殺していった。
やがて軍事独裁は終わったが、責任者は社会の中枢にいすわり、実行者は英雄として堂々と暮らしている。
そこで虐殺者は誇りある歴史を記録するため、ホラー映画のように流血に満ちた再現ドラマを演じはじめた……


デンマークノルウェーとイギリスの共同製作による、2013年のドキュメンタリー映画。忘れられない大量虐殺の記憶をほりおこす。
http://www.aok-movie.com/

映画作家ジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者への接触を禁止され、対象を加害者に変更。彼らが嬉々として過去の行為を再現して見せたのをきっかけに、「では、あなたたち自身で、カメラの前で演じてみませんか」と持ちかけてみた。

上映版に45分ほどのシーンを追加して、2時間46分におよぶ全長版が、GYAO!で5月31日まで無料配信中。
http://gyao.yahoo.co.jp/p/00908/v13432/
基本的に加害者の視点に限定しながら*1インドネシアの日常生活と、キッチュな劇中劇のコントラストで、映像作品として平板になることを防いでいる。題材が刺激的なこともあるが、飽きることなく最後まで集中して見ることができた。
そして同じ加害者にある温度差を映しとり、いまも虐殺を正当化しようとする社会の中で、ひとりの「プレマン」*2が心をゆらすまでを描ききった。


多重の枠組みで同じ出来事を映す、いわば“映画の映画”というべき趣向も興味深いものだった。
映画撮影の舞台裏、実際に再現された映像、鑑賞しながらの反省や論評、当時の反共国策映画、現在の国営放送……どれも虐殺を正当化しながら、重ねあわせると小さなズレが生まれる。そのささいな矛盾が、実際は加害者にも擁護しえない過去であることを浮き上がらせていく。
共産主義者の虐殺への嫌悪や色欲への羨望が語られたかと思えば、それ以上のことを実行していた虐殺者があらわれる。苦痛をあたえたことを正当化する発言があれば、苦痛をあたえずに殺したと正当化する発言もある。再現の手早さに対して当時に気づかなかったのも当然だと自己弁護する人間へ、同じ建物で気づかなかったはずはないと実行者が反論する。選挙に立候補した虐殺者にいたっては、「実業家労働者党」という立場から「労働者の権利のために戦います」と演説する*3
同時に、こうした枠組みで役割りを演じる被写体は、カメラを意識しているはずである。つまり虐殺者は、そこでの自身の発言が建前として成立していると考えている。そのことが、単純に虐殺の事実を隠したり、表層だけ懺悔したりするより、ずっと大きな価値観の断絶を浮き彫りにする。虐殺を正面から再現しているのに、それが現在でもプロパガンダとして通用してしまう社会。劇中劇の過去が、現在の現実と同化する恐怖。

*1:中盤で、虐殺者の隣人が被害者遺族と明かされる場面も、隣人が撮影スタッフとして加害者たちに体験を教える姿と、虐殺の被害者役として見せる演技のみが映しだされる。数人の虐殺者にかこまれて、11歳から12歳ごろの悲痛な体験を語る隣人の姿は、まさに善悪が逆転した社会の縮図だった。また、国営放送のキャスターが虐殺者を賞賛する一方で、それを演出するスタッフが辛辣に酷評する短い場面もある。そこに限らず映画の端々で、虐殺の実行者が社会から嫌悪されつつあることも見える。

*2:「自由な人」を意味する言葉らしい。当時は役人や軍人と違って束縛されず虐殺を実行できて、現在では華僑の商店など立場が弱い人々から金銭をまきあげている。おそらく日本のヤクザに近いが、ずっと堂々と統治者のようにふるまっている。後述の政治家に立候補した虐殺者も「プレマン」。

*3:1時間21分ごろ。