法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ゲド戦記』

劇場上映時から特につけくわえることもないが、TV放映された良い機会なので感想を少し。


最初に、ありきたりな考えだが、父殺しをするアレンを宮崎吾郎監督と考え、父王を宮崎駿監督、ゲドを鈴木プロデューサーに当てはめてみる。
そうして見ると、人々に英雄となるお膳立てしてもらいながら、結局はテルーに全て助けてもらい、故郷へ帰る前にゲド達と疑似家族を楽しむ絵で終わる展開が、何とも味わい深い。
父王を殺した理由が映画で不明瞭なのも当然だ、父殺しという要素は鈴木プロデューサーが提示したものなのだから。偉大な父への反発という内面的な描写すら、導き手から借りた物という宮崎吾郎監督の小ささは、映画全体のスケールが小さいことに通じている。ラスボスたるクモに手下が少なく、移動場面が多いわりに舞台がせまく、主要人物をふくめて人々が書き割りのような描写なのは*1、それらが吾郎監督の内面にないからだ……


……などと作品外部の視点を導入しないと、かなりつまらないアニメと感じる。単独の映画として楽しむことが難しい内容だ。
ジブリアニメに珍しい凶悪な表情は興味深かったが、山下明彦濃度が高いストーリーボードからは残念ながら後退している。何より、『ゲド戦記』より前に公開された『猫の恩返し』『ギブリーズ』ほどの冒険ではない*2


とりあえずアクション映画として観てみよう。
鈴木プロデューサーにサービスが足りないと指摘されて急遽つけくわえた冒頭の竜だが、やはりTVで見ても興奮を与えてくれない。ジブリスタッフによる迫力あるアニメーションといいたいところだが、特に感情移入したくなるような描写はなく、状況の異常さも台詞で説明されるばかりで、作中人物と同じように傍観するしかない*3
アクションシーンのつまらなさは最後まで続く。最初にゲドが戦いに介入する場面はアレンに生き残る意思がないし、アレンがテルーを助ける場面は悪しき暴走として描かれ*4助けた相手からも拒否される。
作画もていねいすぎて逆に興奮をそぐ。アニメーターの力で面白いと感じたのは、クモの最期だけ。しかし面白い作画であるものの、引いた構図と交互に、崩れるクモの姿を寄った構図で映すだけな工夫がない演出で、映像として地味なことはいなめない。


ファンタジー映画として観ると、単調な切り返しが多く、平板な絵でつづられる絵物語といった印象。
下請けの得意な会社、京都アニメーションで仕事をしていたころの山本寛監督がサイトで『ゲド戦記』を賞賛していたが、実際に見て納得できる部分はある。脚本を愚直に安定した技術で映像化するという方向性を持つ『ゲド戦記』は、その意味で京都アニメーション的な作品といえるだろう。
ここで問題となるのは、脚本に全く魅力がないこと。地味であることは問題ない。とにかく説明が不足していて*5、それでいて台詞が説明的でこなれていない。冒頭における会議など、長い台詞を聞きやすくする努力が全く足りない。


原作にいないヒロインが欲しかったのなら、中途で助けた奴隷の少女が竜という展開だけで充分だったろう。敵を倒すことまでヒロインに担当してもらって、その他力本願ぶりに悩むこともしない主人公の存在意義はどこにある。
父がらみの展開に違和感があったのなら、アレンが王の子であるという設定を映画では隠し、ゲドとともに旅をするところから始めればいい。親子関係は臭わすだけにし、必要ならば原作をどうぞ……という手法で良かったのではないか。


同年公開された映画『ブレイブストーリー』は、作画監督の山形厚史や、砂漠で主人公が襲われる状況、終盤に醜悪な姿をさらす敵など、映像面でいくつかの共通点を持っていた。
ブレイブストーリー』も脚本のつめこみすぎが大問題だったが、少なくとも絵になる描写ができていた点でプロフェッショナルな仕事であったと思い知る。

*1:魔法使いに助けてもらいながら差別する村人という面白い題材を、深みがないただの悪人として描いたのにはあきれた。

*2:原作絵に合わせた『ホーホケキョ となりの山田くん』は除く。

*3:乗船者が戦いに巻き込まれるとか、不明瞭なりに感情移入できる工夫もない。戦いの舞台が海上なので、手間がかかっているわりに絵面も地味。魅力的な人物がからまないと、アクションだけで興奮させるのは意外と難しいのだ。

*4:人助けという良心的な行動でさえ、暴力として拒否する人物が出てくる展開は好きだ。しかし、以降は大した展開もなくテルーがいいすぎたと謝り、ドラマに何の意味も与えない。

*5:しかも原作に存在しない展開で説明不足が多く、観客が自力で物語を補完するしかない。