『慰安婦と戦場の性』177頁より、強調引用者。
昔から「女郎の身の上話」という言い伝えがある。純情な若者がすっかり信じこんでいるのを、年長者がからかい気味に戒めるときに引かれるが、最近だと女郎でなく「ホステス」や「ホテトル嬢」に置きかえてもよい。当の私自身も若い頃に似たような苦い思いをかみしめたことがあるが、客を引き留める手練手管と割り切れば、さしたる実害はなかろう。
私情がにじみでていないか、という指摘はすでになされている*1。しかし同429頁のあとがきを見ると、また別の問題が加わってくる。
執筆に当っては、一切の情緒論や政策論を排した。個人的な感慨や提言も加えなかった。
秦教授の排したという「情緒」や「感慨」は従軍慰安婦に対する同情のみで、それ以外の個人的な感慨が入っていることに無自覚な気がしてならない。
秦教授の著作はエッセイ的な文章があるからこそ読みやすいという評価もあるので、無機質な文章にするべきとは必ずしも思わない。だが、少なくとも自身が偏向している可能性を常に念頭において発言するべきではないのか、とは思う。
秦教授が、いわゆる自称中立*2の錯誤に陥っている一例ではないか、という話。