『諸君!』2007年7月号「「従軍慰安婦」置き去りにされた真実」39頁より。
大沼 (引用者略)しかし韓国に対してモノを言うべきではないというような態度は間違っていたと思います。日本の左派、リベラル勢力はこの点を真摯に反省しなければならない。荒井さんもそう思いませんか?
荒井 いや、私は韓国にも言うべきことは言ってますよ。
大沼 そうですか……。
荒井 ただ、慰安婦問題の研究そのものが政治的になりすぎたきらいはありますね。そもそも慰安婦問題は、資料の発掘・公開から始まったものです。立場の違う研究者たちがお互いに手持ちの資料を出し合って議論していこうという雰囲気が、少なくとも最初の頃はあった。ところが、ある時期からメディアや政治の思惑に引き摺られるようになり、お互いの研究を虚心坦懐に評価しあうことができなくなってしまいました。
原点に立ち返って、メディアや政治の思惑を切り離し、歴史資料に基づいて慰安婦問題を研究する姿勢を取り戻したいですね。
秦 私は立場の違う人ときっちり議論したいのですが、四月だけで吉見vs.秦対談をテレビと雑誌が三回企画して、いずれも吉見さんに断られてしまい、成立しなかった。
大沼氏と荒井氏の感覚の違い、特に「韓国にも言うべきこと」を言っているか否かという点で、齟齬があるようだ。
個人的にはメディアに取り上げられる際の編集で、荒井氏らがモノを言っている部分は削除されていた可能性はあると思っている。たとえば吉見教授が韓国人研究者の従軍慰安婦推定数を退けたり、証言者の勘違いや記憶違いの可能性を指摘していることは幾度もある*1。しかし報道で吉見教授の意見を聞く際に、そういった指摘が記事と無関係ならば取り上げることをしないだろう。
あと、秦教授の発言は自分の胸に聞いてみるべきところがあると思う。そもそも、本来は学者がきっちり議論するのは論文等でやるべきであって、テレビや雑誌の対談は基本的に一般への啓蒙活動と考えるべきではないか。
ついでに、直後40頁も引用しておきたい。
大沼 品位を欠いているのは、いわゆる「保守派」の言論人も同様です。「嫌韓流」「反中」なるものがもてはやされる風潮を見るにつけ、短絡的かつ近視眼的なナショナリズムの臭いを感じて暗澹たる気分になります。その点、秦さんや『諸君!』の責任も非常に大きい(笑)。
秦 自省しましょう(苦笑)。(引用者略)
大沼氏の発言は当然の内容なのだが、鼎談の次にある記事が、西尾幹二『なぜアメリカに赦しを乞うのか 二つの世界大戦と日本のつつましい孤独』*2というあたりが味わい深い。
日本ナショナリズムに影響を与えた小林よしのり『ゴーマニズム宣言』における従軍慰安婦見解が、秦教授の研究を元にしていると見られている点を考えれば、苦笑ですませられる問題ではないとも思う。
ところで、なぜこのような鼎談が可能だったかと思っていたら、下記のような報道があったことを知った。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200708220119.html
「諸君!」は6月号から内田博人編集長に交代、7月号の「激論『従軍慰安婦』置き去りにされた真実」で、常連の現代史家、秦郁彦氏の討論相手に大沼保昭氏と荒井信一氏を起用して読者を驚かせた。大沼氏はアジア女性基金による補償事業を進めた中心人物。荒井氏も元慰安婦への公式謝罪と個人補償を日本政府に求める活動を続けている。8月号でも元朝日新聞記者の国正武重氏と日本経済新聞客員コラムニストの田勢康弘氏が、特集「安倍政権、墜落す!」に顔をそろえた。
「テーマも起用する論客の幅もかなり狭くなっていた。左右にとらわれず、声をかけたい」。内田編集長はそう説明する。同誌の05年9月〜06年8月の発行部数は平均約8万2000部(日本雑誌協会の印刷証明付き)で、3年間ほぼ同じ。01年の小泉首相の靖国参拝や02年の拉致問題では「こんなに売れるのかと思うほど好調だったが元に戻った」という。
トラブルもあった。水谷三公・国学院大教授は、2月号の寄稿で編集部がつけた「姜尚中がタレ流す『空疎な修辞』」というタイトルがマナーを欠くと、翌月の投稿欄で批判した。「自分で自分の足を引っ張っている、と申しあげた」(水谷教授)。かつて北朝鮮の拉致を非難して「殺(や)ったな!!」(02年11月号)と叫んだ激しいタイトルは、このところ影を潜めている。
編集長交替という経緯があったらしい。『諸君!』同号の他記事を見る限りでは、さほどの方向転換とも思えなかったが、古き良き保守の復権を目指すのであれば応援してもいいと思える。