法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

安倍談話に対する政治学者の信頼感がよくわからない

政治学者の三浦瑠麗氏が、下記のようなツイートをしていた*1

そんな三浦氏自身の評価は、談話発表の直後に下記エントリで公開されていた。
戦後70年の総理談話に想う - 山猫日記

 一つ推奨したいのは、談話を実際に読んでみることです。何を今更と言うことなく、もう読まれた方は、もう一度読んでみてはいかがだろうか。賛成できない箇所があったとしても、多くの国民は共感するのではないかと思います。

なるほど知性ではなく包摂を評価したがゆえに「共感」を重視したのだろう。
しかし安倍談話は長さのわりに具体性が欠けている。もし「共感」できるならば、その根拠は談話自体とは別のところにあるだろう、というのが私個人の感想だった。


ちなみに三浦氏のブログはコメント書き込みが可能で、管理者が承認すれば公開されるという。そこでエントリへの疑問を書いたのだが、10日ほどたっても反映されていない。
もちろん承認するもしないもブログ管理者の自由なのだが、せっかく書いたのでここで公開することにした*2

終戦から、70年の歳月が流れ、我が事として戦争を知る世代は随分と少なくなりました。真正な反省の前提は、真正な不正への参加です。

よくわからない。
一般論として、参加しなくても、指示や管理する立場であれば反省は必要なのではないか。

戦争が終結した時点で、指導的な立場にいた方で、今なお指導的な立場にある方は誰もいません。ということは、本当の意味で責任を取り、真正な謝罪を行える人は誰もいないということです。

問題を起こした時の責任者が退任すれば企業は責任をとらなくてすむのだろうか。
たとえば、2014年から2015年に朝日新聞従軍慰安婦報道で謝罪したり反省したりしたのは誤りだったというのだろうか。個人的には撤回する必要のないところまで押しきられたとは思っているが、一般論として経営者がかわっても責任を継承するものだろうとも思う。

総理の孫でさえ、祖父の責任を肩代わりすることはできないのです。

よくわからない。総理に責任が求められるとすれば、それは国家の代表者としてだろう。祖父の責任を「肩代わり」することを望んでいる意見は見たおぼえがない。近年の首相談話にしても首相や国家という枠組みで反省しているものばかり。
また、安倍首相の場合は、従軍慰安婦問題を否認するデマを国政で公表して放置しており、戦争そのものの責任はなくとも戦後の歴史認識における責任は負っているのではないだろうか。
高木健一氏が池田信夫氏を告訴したらしいので、安倍晋三氏が流したデマについて指摘しておく - 法華狼の日記

慰安婦問題を教訓として、談話は「21世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードします」と大見得を切りました。今後、日本はその言葉に違わぬ姿勢を示していくことが必要になります。一段重い責任を自ら背負い込んだわけです。その重みは、背負っていく意味のある重みです。

談話には「慰安婦」問題とは明記されておらず、性的な搾取や日本軍性奴隷といった用語も出ていない。そう解釈されることを期待した文章だろうとは思うが、談話そのものを読むべきというならば女性の人権一般の話しかされていないと解釈するべきではないだろうか。
そして現実には女性自衛官のレポートは削除されたままで*3、外務省の歴史問題ページも一部が削除された状態だ*4河野談話の「歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さない」*5という文言の重みを、きちんと自民党は背負ってきただろうか?
一般論として、建前を態度で示さない人間の場合、大見得を切るほどむしろ信用しがたいものになると思う。大見得を切った人物に対して、その重みを自覚するよううながす必要があるのではないだろうか。

20年前の、社会党出身の総理が敷いた路線を、政権交代の時代の保守政権のトップにそのまま引き継げというのは、その時点で無理があります。言葉は引き継げても、感情は引き継げませんから。

前後するが、ならば先に引用した「一段重い責任」とは、20年もたてばひきつがれなくなるものなのだろうか。
20年前の自民党連立政権の路線すらひきつぐことを「無理」だというのは、それくらい首相談話を軽く考えなければならないという主張であろう?

今般の総理談話の一番の特徴は、過去の反省を過去の評価にとどめおくのではなく、反省点を昇華させ、現代への指針とする姿勢です。戦争から70年の月日が過ぎたことを踏まえれば、方便としての謝罪よりも、よほど望まれる真摯な姿勢です。

たとえば村山談話の「近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております」は、安倍談話より具体的に現在の行動に言及していると思われる。
事業を展開していることと、口約束の段階では、一般的に前者を指して「茨の道」と呼び、後者を「方便としての謝罪」と考えるのではないだろうか。


ここまでを三浦氏のブログに書きこもうとした。
細かく疑問をならべていったが、大別するとふたつだけ。責任をのがれる方向においてのみ国家と国民と政府を混同していないか、そして過去の態度と比べた時に安倍談話への信頼感をなぜもてるのか、それぞれの根拠が三浦氏のエントリには見当たらないということ。
もちろん三浦氏は専門の政治学者なのだから、自明ゆえに明記していない前提があるのかもしれない。いつかその疑問が解ける日はくるのだろうか。完全にブロックされたままなのだろうか。

*1:ツイッターアカウントは[twitter:@lullymiura]。

*2:引用符を引用枠へ、ですます調をだである調へ、URLをはてな記法を用いたリンクへ変更し、補足訂正のための2度目のコメントを最初から反映させた他は、書き込みした文章のまま。

*3:http://www.47news.jp/CN/201507/CN2015071601000803.html

*4:安倍晋三首相談話と前後して、外務省サイトから歴史認識にまつわるページが削除されたとのこと - 法華狼の日記

*5:慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話