法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

フィクションをレビューする時、フィクションそのものよりレビューにこそ問題があらわれることはよくある

現実における妥当性を基準にレビューすることは、現実で何が妥当かという主張がおりこまれるもの。
たとえば、ナチス全体を英雄的に描いたフィクションがあるとする。そこでナチスを英雄視するべきではないという批判があったとする。そこで批判から擁護するなら、現実のナチスとは異なるところを指摘して意味を見いだしたり、フィクション内の価値観は現実の価値観と違ってもいいと主張したり、作品が英雄視しているのではなく英雄視する人々を戯画化していると論じたり、そもそも英雄とは倫理的に善とは限らないと考えたり、いろいろな方向性があるだろう。
しかし現実にナチスは倫理的だったから正しい描写だとか、ホロコーストはなかったとか、ホロコーストは善行だったとか、そういった理由でナチスを英雄的に描いたフィクションを擁護するとどうだろう。フィクションの作者も困るかもしれない。困らない作者であれば読者が困るかもしれない。


そのようなことを、こちらのTogetterに対するコメントを読みながら思った。
『GATE』は2chまとめサイトを鵜呑みにしたような世界観&政治観がきつい - Togetter
ところで、『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』のコミカライズを借りて読もうとして、第3巻の論争を斜め読みしただけで気力がなくなった。たぶんTVアニメでは映像化しないだろうとは思うが。
『GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』の、せまい世界観と段取り不足 - 法華狼の日記では冒頭にしぼってコミカライズ版をTVアニメ版よりは良いと思ったが、コミカライズ版でも国会の論戦は読むのがつらかった。コミカライズしている漫画家は、軍事と近しい生活感の表現にたけていると思うのだが、論争で倒す相手の戯画化はあまりうまくない。伏線をおりこめない頁数の問題なのかもしれないし、原作からの問題かもしれないが。
そもそもフィクションで論争を描く時は、勝利するまで追いこまれつづけたり、敵対者の主張にもそれなりの理屈があると描いたりと、最後に負ける側にも何らかの華をもたせないと、負けるためだけに出てきたキャラクターと感じさせがち。現実にモデルがいると示唆したキャラクターを負けさせる場合もあるが、その時は論争そのものの巧拙がわかりやすいので、よほどうまく理屈や伏線をねってほしい。
また、負ける側に華をもたせずとも、勝つ側をつきぬけさせる方法もある。その場合は読者の予想をなぞるのではなく、熱狂的な読者すらふりおとすくらいの意外性がほしいところ。ここ最近でいうと、映画『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!史上最恐の劇場版』の「そこまでやったら犯罪です!」のように。