法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

元寇に勝てたのは自然現象のおかげだから「神風」を歴史教科書には載せてはいけないといっていいのだろうか

おおや氏の、もう5年ほど前になるエントリだが、あらためて当時に見当たらなかった観点から批判したいところがあったので。
on performativity - おおやにき

つうか私としては「具体的事実を捨象した「正論」」によって塗りつぶされてしまうような個別の記憶なんて塗りつぶされてしまえばいいのであると考えているわけだからやはりこれも「はあそうですか」という話で終わりになってしまう。

というのはまず一つ極論をするが、「南極の氷の下の穴の中にあるナチスの秘密基地から飛んできたUFOにアブダクトされました」という被害証言をしている人がおり、数々の証拠から当人が真摯にその主張をしていることは疑えないとしよう。物理法則のような「正論」によればこの証言は「国民の記憶」に統合されることなく塗りつぶしてしまえということになると思うのであるが、そうではなくこれも被害者の側の真摯な証言なのであるからその内容は「国民の記憶」に統合されねばならず、教科書にツンデル氏とかにご登場願わないといかんのであろうか。

もちろんそうではないとお認めいただけると思うわけだが、

一般的に考えても、歴史教科書に記述されるのは、必ずしも物理的な現象だけではない。いや、唯物的な歴史観はそれはそれでいいのだが、それに基づいて「正論」で捨象するべきという論点なれば、「極論」など持ち出さなくても現実の歴史教科書に具体例がある。
エントリタイトルで書いたように、「神風」については、扶桑社と帝国書院に「神風」という単語が特に記載されており、色々な意味で納得できる*1。さすがに扶桑社もカギカッコをつけて、そう呼称されたと記述するにとどめているが、検定に通ったことは事実なわけだ。
「神風」以外でも、たとえば日蓮の主張なども科学的に見れば「そんなオカルトありえません!」の一言で切り捨てられるような内容だが、偶然にせよ社会状況とかみあっていると当時に受け止められたこと、それが現代までいたる社会的影響力の要因として、歴史教科書に掲載されることが不思議とは思えない。
「南極の氷の下の穴の中にあるナチスの秘密基地から飛んできたUFOにアブダクトされました」という被害証言が大規模に存在し*2、実行者が誰であれアブダクトと同じ被害が確認できたのであれば、それを歴史教科書に載せてならない理屈はない。被害者証言そのものが歴史教科書に掲載される可能性は低いにしても*3、そのような証言を生み出した歴史的な事件が原因が何であれ実在したならば、必ず塗りつぶされるべきものとはいいがたい。
物理法則のような「正論」でさえ、具体的な状況によっては必ずしも「塗りつぶし」の根拠とならない。


だいたい、「UFO」は単に未確認飛行物体という意味にすぎないし、南極の氷の下に秘密基地を作ることも技術的に不可能というほどではない。書かれている条件が不充分すぎて、「物理現象」に反してすらいない。
ちなみにエルンスト=ツンデル自身がホロコースト否定論者のネオナチで、UFO写真もプロパガンダのために作っていた。第二次世界大戦後のナチズム史を記述する場合、真面目な歴史書に掲載されてもおかしくない人物だ。その行動の一環としてUFO写真が言及されることももちろん考えられる。
20世紀最後の真実―いまも戦いつづけるナチスの残党

”フリードリヒ”が大物リヴィジョニスト(ホロコースト否定の歴史捏造者)かつネオナチのエルンスト・ツンデルであることは常識です。しかしなぜ「UFO」なのか? “フリードリヒ”は実はこんなことを暴露しています。

「私は、北アメリカの人々は教育されることに興味がないのだと気づきました。彼らは楽しませてもらいたいのです。その本は楽しむためのものでした。表紙に載せた総統の写真と南極大陸からやってくる空飛ぶ円盤のおかげで、ラジオとテレビのトークショーに出演するチャンスが得られました。私は、1時間番組のうち約15分間は、この不思議なエピソードについて話をしました。それから…それが私にとって自分の話したいことを話すチャンスだったのです」

(ロバート イーグルストン著 「ポストモダニズムホロコーストの否定」より)

つまり“フリードリヒ”は自分の珍説(ホロコースト否定)を宣伝するためにこの怪電波をでっち上げたのです。

物理現象に反している内容を歴史教科書から排除するべきと考えるならば、扶桑社等の教科書に記載されている記紀神話こそ優先して排除すべきとなるだろう。
個人的な記憶として、崇徳天皇菅原道真の怨霊について一般向けの歴史解説書で学んだこともある。明らかに物理現象に反した記述であっても歴史として受け止めることができるのだから、物理現象に反していない証言が歴史教科書に掲載されることに何の不思議もない。


最後に、5年前にも批判されていた問題点についてもあらためて書いておく。
「理論的主張の内容については正しいとお認めいただいているようなので私としてはじゃあそれでいいじゃねえかという話である」*4といい、具体的な事情との齟齬を指摘されていることへ反論しないならば、おおや氏はApeman氏に批判された部分を取り消せば「それでいいじゃねえか」と思わざるをえない。
もちろん、Apeman氏に批判されたエントリを読めば、下記のように冒頭で「卓抜な一例」として報道記事を引いている。単に理論的主張を一般論的に述べるエントリには見えにくいし、ひるがえって訂正しなかったこともその印象を強める。
on reversibility - おおやにき

結果が気に入らないからといって「中立」となっている機関の決定に文句を付けはじめるとどういう結果になるか、という問題に関する卓抜な一例について。

「理論的主張の内容」を吟味するならば、むしろ「もちろん一般論として加害者側は被害を過小に・被害者側は過大に証言するバイアスが働きます」と認めつつ、「ここで言いたいのはそういう事実の積み重ねの議論ではなくて被害者の特権性にすぐに飛びついている」などと批判したおおや氏のふるまいこそ問題があるだろう。そもそも、証言証拠にかかるバイアスを組み込んで検討していくことこそ、事実を積み重ねていく議論の一環だろう。被害者証言がそのまま特権的に事実を示しているなどと、私が知る限りApeman氏が主張していたことはない。
おおや氏の態度は、具体的な根拠部分を批判された時に、理論部分への反論がなかったことをもって自説の正しさを主張し続ける、よく見かけるダメ人間のふるまいにしか見えない。せめて具体的な根拠部分を取り下げてから理論的主張を続けるという形式をとれば良かったろうに。

*1:ちょうど各教科書の比較をした論文を見つけた。http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AA11618725/BullGradSchEduc-HiroshimaUniv-Part2_59_97.pdf

*2:もちろん人数だけでなく、社会的な影響などもふくむ。

*3:しかし、社会的な影響力を生んだ場合は、さまざまな誤認があることを前提として、そのまま引用される可能性もあるだろう。

*4:強調原文ママ