法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

従軍慰安婦否認論者はホロコーストという言葉も知らないらしい

1997年の『歴史教科書への疑問―若手国会議員による歴史教科書問題の総括』という書籍から抜粋し、吉見義明教授が論戦で撃沈されたと主張するエントリがある。ツイッターではそこそこ話題になっているようだ*1
慰安婦論戦で吉見義明撃沈…16年前の灼熱バトルを再現 東アジア黙示録 /ウェブリブログ

吉見義明「従軍慰安婦という言葉が当時なかったということは事実であります。しかし、当時そういう言葉がなければ使ってはいけないということになりますと歴史というのはほとんど書けないと思うんですね。例えば当時、江戸時代に自分たちの時代を江戸時代というふうに言っていたかというと、そうではないわけですので、あとからそういう言葉がつくられるということは往々にあるわけであります」(前掲書179頁)

藤岡講師「『江戸時代』という言葉も使えないじゃないかとおっしゃいますが、これは全然話が違いまして、こういう一つの大きな時代をくくる言葉は、あとでつくるというのは当然のことであります。今の問題は『慰安婦』という個別の実際に存在する事象の名称です」(前掲書192頁)

藤岡教授が出来の悪い中学生に歴史学のイロハを優しく教えている感覚だ。

しかし歴史上の事件や集団で、主導者が名づけたと確認できる呼称がどれほどあるだろうか。
ナチスが行った絶滅政策「ホロコースト」はユダヤ人の風習に由来しており、当時のドイツ中枢が用いていた呼称では当然ない。「ショアー」もそうだ。もしも歴史の記述に主導者の婉曲的な呼称を用いることが求められるなら、ホロコーストに対しても「最終解決」といった言葉を用いなければならなくなる。
江戸時代を例外あつかいするなら、「江戸幕府」はどうだろう。日本の各時代の政権を指す言葉として「幕府」を用いることも、江戸時代なかごろに入ってからのことだ。少なくとも「鎌倉幕府」や「室町幕府」という呼称は当時は用いられなかったし、「江戸幕府」にしても成立した後につけられた言葉である*2
幕府だけでなく、時代をさかのぼってつけられた呼称は多い。そのため事象を指す言葉でも、原理的に当時に存在しえない場合がある。ローマの「五賢帝」という言葉がトラヤヌス帝やハドリヌス帝の時代から存在したはずはないし、「第一次世界大戦」という言葉も第二次世界大戦が起こる前には存在しない。
日本の近現代史から引くと、事件が起きた日から名づけられた「226事件」も、事件当時ではなく、後年に定着した言葉だ。この事件に対して主導者の使っていた呼称を用いるなら、「昭和維新」とでも呼ぶしかあるまい。
日本在住者が太平洋戦争の戦禍をこうむった事例でも同じだ。原爆投下を指すために被害を受けた地域をカタカナで「ヒロシマ」や「ナガサキ」と表記する表現は、もちろん米軍の用語を引いたものなどではないし、定着したのは戦後しばらくしてからだ。そして世界遺産にも登録された「原爆ドーム」は、本来の呼称は広島県産業奨励館である*3。最初につけられた名称とは別に、歴史的な意味あいがこめられて新たな呼称が生まれることはよくある話なのだ。
そもそも、歴史に記述されるべき事象という共通認識が生まれるのは、事件が起きたり集団が生まれた後になる。関係者が用いていたような言葉、つまり当時の認識にもとづく呼称が、後世の認識とも必ずしも適合するわけがない。


前後するが、下記の論戦はさらに目を疑う内容だ*4

藤岡講師「違法行為だったら、徹底的に追及すれば、その韓国人の業者を摘発しなきゃいけなくなるんですよ。それやりました?」
吉見義明「いや。しかし、戦争中にそれをやる責任があるのは軍と総督府でしょう」
藤岡講師「だから、韓国がこの問題に消極的なわけですよ。そして親だってそうですよ。それに子供を売ったのは違法だと言えば、親も加担しているんだから、韓国人の多くのお年寄りを犯罪者扱いすることになるんですよ。そんなことできますか、あなた」
吉見義明は結局、それには答えず、沈黙したままだった。

人身売買がおこなわれていた時代、その制度を国家が利用していた。その違法性までは吉見教授の相手2人も認めている。しかし、その時に売った親も追及されなければいけないから、問題を追及するべきではない、と2人は主張した。
これは慰安所制度に対する韓国側からの追及から逃れるための論理だが、そのまま日本出身の従軍慰安婦や当時の公娼が受けていた苦しみを黙殺し、さらに現代社会の人身取引を追及することをも阻害する。経済格差によって身売りをしいられた貧困被害者への、明らかな二次加害だ。
仮にも民主主義社会の住人として、ありえないほどの価値観の断絶を感じる。この論戦で吉見教授が沈黙したことを撃沈されたと評する人間も、その評を肯定する人々も、恐ろしくてならない。

*1:http://topsy.com/dogma.at.webry.info/201306/article_1.html

*2:http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20090601/1243828077等で、Wallerstein氏がよく皮肉の意図で指摘している。

*3:中国新聞の調査によると、米国側が爆心地の建造物を「ドーム状ビルディング」と呼称していたことから引いたもので、日本国側では1947年ごろからドームという呼称が使用されて定着していったという。http://www.chugoku-np.co.jp/abom/2007/hiroshima_kiroku/2007060501.html

*4:韓国がこの問題に消極的だとかいう、事実に反した主張はさておく。