法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

その国旗に風穴を開けろ!

いや、まず何の話かというと、先々週ごろのNHK総合深夜で、BSドキュメンタリーを地上波放映していたわけ。
主題は、東欧各国の共産主義体制がソ連崩壊にともない終焉してから、資本主義国家として再生しようとしている現在までの姿。ポーランドルーマニアチェコスロバキア東ドイツ、等の国々が、いまだに癒せぬ傷をかかえながら日々を生きていく姿が写し撮られていた。
民主革命の熱気はすぎさり、産業の遅れで失業率が高く、前政権時代の情報開示も進まない社会。民主革命の中核から前線までになった人々が、過去から現在までをおのおのの目線でふりかえる。
たとえば、社会主義体制崩壊によりナショナリズムが勃興し、ビロード離婚*1したスロバキアは、旧ソ連へ歩調を合わせようとしてEU加盟が遅れた。このいかにも「歴史の皮肉」という言葉が当てはまりそうな出来事に対しても、スロバキア民主化運動者からは否定意見が出されたりする。住民の声を直接反映させれば分離独立されることはなかった、と。一方で分離後に西欧からの距離問題で産業が停滞しているスロバキアを見れば、現在に語られる心象が実際に分離独立時そのままと無批判に受け取ることもできない。
他には、急速な資本主義への移行にとまどい、社会主義体制の保障を懐かしむ庶民の姿が目立った。そういえばスターリン時代を懐かしむロシア人*2がいるという報道は以前にも読んだことがある。資本主義と社会主義は互いに対立していた時だけ自身のモラルを喧伝していたという言葉が重い。


ともかく、激しい内戦が続いたような国を除いて、最近では知ることのない*3東欧の姿を見られたのは良かった。重苦しいだけでなく、一過性の爽快感があるわけでもなく、悪いことも様々に残る社会を少しでも良く生きようとする人々の姿にも胸を打たれる。
……で、最近の日本国内におけるデモ議論を思い起こさせて興味深かったのが、ルーマニアの回。ルーマニアにおける民主化運動では、共産党のシンボルが描かれている国旗中央に穴を開けて、共産主義政権への反抗心を示していた。そして流血の後に民主化がなされた現在でも、くりかえされる保守反動へ抗議するため、ハンガーストライキが行われている。そこではやはり、中央に穴が開いた国旗がかかげられていた……
日本においては国旗を傷つける運動が拒否反応を引き起こしたが、ルーマニアにおいては許容されている。正確にいえば、国旗を傷つける運動がルーマニア国内でどのような反応をもたらしているか番組では判然としないのだが、少なくとも日本で番組を制作している側は拒否反応を示していないし、日本での視聴者が拒否反応を強く持つことを想定したような描写でもなかった。文脈が提示されることで、国旗を傷つける行動は一つの反体制運動として受け止めることができるわけだ。
日本におけるカウンターデモでは、国旗を改変する文脈が提示されていないという批判や、そもそもデモという場は文脈を提示することが難しいという批判があったことも知っている。しかしルーマニアにおける国旗改変運動も、番組から判断した限りでは、文脈を同時に提示してはいなかった。いや、少なくともカウンターデモでは改変しない国旗を掲げた者も参加しており、多様な意見を内包していたことは示されていた*4
改変しない国旗と改変された国旗がともに存在するだけでは文脈提示が不充分という意見を、もちろん全否定はしない。しかしカウンターデモに参加しなかった側が文脈を読もうとしない側の態度を無視し、デモ批判だけをして済まされるべきとも思わない*5責任の軽重で違いはあるにせよ、文脈が読めるかどうかは送り手だけでなく受け手の問題でもある。


下記でumeten氏がレポートしているように、デモの趣旨と無関係な主張をしたのは、統一されたシュプレヒコールというデモ手法に疑問を感じたからもあっただろう。
外国人排斥を許さない6・13緊急行動に参加してきました - こころ世代のテンノーゲーム
日本の社会は、ともすれば組織性を揶揄されるようなデモしか許されない。サウンドデモのような試みもあったが、成功したとはいえない状況だったと記憶している。
逆の例にも目を向けよう。一部保守派が批判するような「プロ市民」のデモと、当の一部保守派デモにはたいてい大差ない。この場合に一部保守派が批判されるのは、社会がデモ形態を制約していることを無視し他を批判したためであり、加えて自身のデモには他を批判するより甘い基準で評価するためだ。全く異なるデモの形態を示せないこと自体は社会の問題でもある。
そして、制約の多さはデモ参加自体の制約にも繋がる。異なる意見を持つ者も取り入れずに、組織化することもしなければ、デモの参加者を集めることは難しい。


政治運動の形態や手法を批判すること自体は全くの自由だ。むしろ思い切り意見をぶつけあうべきと思う。
しかし、政治運動の形態が参加者や主催者の一存だけで決まるかのような認識は不充分であるし、異なる形態の政治運動が行われなかったと指摘する意見を拒絶するにいたっては端的な誤りだ*6。他者支援という文脈で、様々な思想を持つ人々の発言を統一しないままのカウンターデモしか存在していないことは、デモのもたらす効果とは別個に、深刻な社会状況も示している。
加えて、今回のカウンターデモにおける手法として国旗改変が悪い効果をもたらしたとしても*7、今後の他者支援デモにおいても手法として国旗改変が悪い効果をもたらすままでいいのかという問いは生き続ける。
今夜の焼きザカナ 軽くて重いことば

あの時彼女が発した「非国民」は軽々しくて、幼稚だった。けれどそれが10年を経てもなお、重奏低音のように私の中に響きます。今、「外国人」にとって重大なリスクとなってしまう「反日」は、軽く名乗ったり、笑い飛ばしたりできるものに書き換えていかなければなりません。「反日上等!」は、投げかけられたレッテルのとらえなおしであると同時に、「反日的」と名指された最も困難な他者と共に生きる覚悟の表明でもあります。それはマイノリティを一方的に名付け、仕分けし、包摂と排除を行う構造的差別を、少しずつ解体していこうとする企てです。



いや、色々なエントリやコメントを読み直していたら、ある程度まで周知されているみたいだし、引用した深海魚氏のエントリ等でずっと平易にまとまっているが、念のため再確認という意図で書いておく。
あと、国旗改変も反日上等も、すでに「表現」された後ということを注意したい。運動の反省をするのはいいとして、その表現を読解し周知する作業をおこたらせていいという話にはならない。
批判されるという形ででもネットで注目され、長い議論を引き起こしているという意味において、国旗改変という「表現」は上等であったと評価することもできる*8。評価の仕方によっては、多少なりとも後に残すべき成果も生まれるかもしれない。

*1:チェコからのスロバキア分離独立を指す言葉。民主体制へなめらかな移行をはたした「ビロード革命」と対になる。

*2:必ずしも共産党政権下で利益を得ていた人ではない。

*3:もちろん、情報を能動的に集めようとしない私自身の問題でもある。

*4:http://d.hatena.ne.jp/umeten/20090613/p1にcomzoo氏が書き込んだコメントを参照。この点において、主催者自身が無関係の主張を行ったチベット開放デモとは性質が異なる。だから国旗改変への批判は、カウンターデモ全体への批判と同一ではないはず。

*5:文脈があることを前提とした上で、現状に取れる手法を論じて批判することを否定しているわけではもちろんない。

*6:せいぜい手法批判が相対化されかねないという指摘にとどめるべきだろう。

*7:いしけりあそび氏の懸念が誤っていたという話ではないが、論議が続いているのはネットばかりで、日本社会全体を見れば悪い効果すらもたらしていない感もある。

*8:そもそも表現というものが一般的に受け手の思いもしない物事を提示するものである以上、強い主張が相応の反発を引き起こすことも少なくない。反発を引き起こしたということだけで表現を否定できるのかという疑問もある。