テーマのうまくまとまっていないTogetterが話題になっているのを見かけた。
何故しずかちゃんは出木杉くんじゃなくてのび太を選んだんだ“現実的に”有り得ない!!! - Togetter
最初に収録されている勝部元気氏のツイートがTogetterタイトルとどのように関係するのかがわからない。『ドラえもん』に関係する要素が見えないし、リプライから派生している様子もなさそうだ。『ドラえもん』を語っているツイート群とは7日間ほどあいている。
逆に、『ドラえもん』についてchounamoul氏が語りはじめている後述のツイートを、2日後に勝部氏が引用ツイートしていることは確認できた。ならば普通はchounamoul氏のツイートを冒頭に置くべきだろう*1。
実のところ、勝部氏については、そのパターナリスティックな言説や、私的な人間関係が批判されているところは仄聞する。Togetterへの反応を見るかぎり、勝部氏のツイートひとつに印象を誘導される人々が多いようで、文脈を示さず冒頭においたkusamura_eisei氏の過ちと思わざるをえない。
そこで実際の発端となったらしいchounamoul氏のツイートだが、娘の発言を紹介するかたちは気になるが*2、ひとつの感想として理解はできるものだ。
そもそもラブストーリーの展開に対して、どのキャラクターと関係をむすぶかで、納得しない読者の批判的な感想はよくある。
その感想に対して、物語がフィクションだという指摘は必ずしも反論にならない。フィクションをとおして示された観念の妥当性や、その影響力へ懸念が示されることは普遍的なものだ。
日本社会で戦争にまつわるフィクションが反発された近年の事例といえば - 法華狼の日記
表現を制約しようと公権力が動いているわけでもなく、「個人の感想」で読者から作品が退けられるだけならば、それは表現の自由市場が守られているということだ。
感想に反論したいならば、実際の作品と乖離した読解を根拠にしていることを指摘するべきだろう。chounamoul氏のツイートでいうと、「いつも優しく陰からそっと支えて」や「あまりに男の子の都合に従属して消費される脇役というか道具でありすぎる」といった部分で、後述のような異論がある。
まず、のび太が結婚相手としてふさわしい評価が語られる「のび太の結婚前夜」というエピソードはある*3。Togetter内でも言及され、まとめているkusamura_eisei氏自身も反論にもちだしている。
渡辺歩監督のアレンジで中編アニメ映画化され、評価を義父が語る台詞が名場面としてよく紹介されることもあり、有名なエピソードであることに間違いはない。
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しかしこれはchounamoul氏にはじまる論点とはズレがある。なぜなら「のび太の結婚前夜」で評価が語られるのは、タイムマシンで向かった未来のことで、子供時代のことではない。
のび太が義父の台詞を聞いて自身の良さを再発見するという物語とも異なる。のび太は台詞を聞いて赤面するし、結末でしずちゃんに対して幸せにしてみせるという決意を語る。
たしかに中編アニメ映画では感動的なドラマとして、未来ののび太が評価を体現する場面が先に追加されている。しかし原作では、高評価される未来と、そうではない現在の乖離が描かれている。
しずちゃん自身がのび太とつきあうことを宣言する「雪山のロマンス」もそうだ。のび太はヒーローを演じようとして失敗する。結果的に哀れみからのつきあいに発展するが、のび太はそれを恥ずかしいことと受け止めて、ドラえもんも努力をうながす。
原作において、のび太としずちゃんの関係が進展するようなエピソードの多くが、のび太が相手と対等になれていないことを自覚的に描写している。
のび太の愚かしさが痛感される「たまごの中のしずちゃん」というエピソードまである。単行本の表紙に使われていることから、作者も重視していることがうかがえる。
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のび太が出木杉に対抗して洗脳的な秘密道具を使うが、紆余曲折してしずちゃんは出木杉へ依存することに。しかし出木杉は、しずちゃんへの恋心を明かしつつ*4、洗脳による関係を否定する。そして洗脳を解いた結末で、しずちゃんの出木杉への好意は高まり、のび太は見向きもされない。
ここで作者は主人公を徹底的につきはなして、未来技術で利己的に結婚相手を変えるという作品の根幹設定まで批判の射程にいれている。
chounamoul氏のツイートに代表されるような批判的な感想を、むしろ『ドラえもん』は作品におりこんできた。先日のエントリで書いたように。
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『ドラえもん』の原作がはじまったのは1969年。作品を読めば、そこかしこに時代の限界がかいまみえる。
都合のいい結婚相手を求めて時間改変しようとする根幹設定からして、現代の感覚では通用しないだろう。
同時に、連載をつづけながら世界観のアップデートをくりかえしてきたことも間違いない。
それを象徴するひとりが、結婚相手として主人公から拒否された少女ジャイ子だ。
そうした個別のエピソードがエクスキューズにとどまるか、作品で示されるメッセージを更新するかは難しい問題であり、いまの私には語る能力も余裕もない。
ただ、批判的な読解が作品に新たな視点をもたらしたり、作品そのものを新たな発展にいたせらせることがあるのはたしかだろう。
批判的な感想を検討もせずに拒絶することは、『ドラえもん』の場合は作品の半分を拒絶することになりかねない。
*1:あるいは、Togetterの末尾に近くに収録しているkusamura_eisei氏自身のツイートを冒頭に置いても良いかもしれない。肉体的暴力と比較して性的加害を矮小化するツイートは、勝部氏のツイートよりも編集の意図がわかりやすい。
*2:これ自体がパターナリスティックなふるまいではないかという注意がほしい。親という立場は、どれだけ気をつけていても子を誘導しかねない権力関係がある。
*3:前夜の私的な宴会に出木杉が参加していることや、その場面の短い台詞から、出木杉としずちゃんの関係や思慕がとぎれていないこともわかる。
*4:説得で出てきた言葉なので、どこまでが本心なのかは解釈の余地があるかもしれない。