法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

江口聡氏による「詭弁と誤謬推理に気をつけよう」と題したエントリで、詭弁といわざるをえない要約をしていて呆れた

江口氏が論じているのは現代ビジネスに掲載された牟田和恵氏の記事*1で、牟田氏が自明としているものが自明ではないと指摘したいようなのだが。
詭弁と誤謬推理に気をつけよう(1) 宇崎ちゃんポスターの場合 – 江口某の不如意研究室
まず、「ガイドラインに反しているのは明らかだと主張しているところまで引用しましょう」として、長々と週刊現代記事から引いているのだが、ここではポスターの内容を評する部分だけでいいだろう。

今回使われたのは写真の通り、幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調するもの。「宇崎ちゃん」という名のキャラらしい。

今回のポスターはこうしたガイドライン等に抵触することは明らかだろう。

「明らかだ」っていうんですが、本当に明らかでしょうか。私こういうタイプの文章見ると混乱してしまうんですよね。
牟田先生の上の引用での主張を、簡単にまとめると、「宇崎ちゃんは幼い顔でおっぱいが大きく描かれている」「宇崎ちゃんは過度に性的だと米国人男性が言った」「国連はメディアのジェンダーステレオタイプの是正を求めている」「男女平等参画基本計画ではメディアにおける女性の人権の尊重を求めている」「自治体がいろいろガイドラインを定めている」ぐらいですよね。

江口氏は「簡単にまとめる」として具体的な記述をいくつも改変しているが*2、さて牟田氏の評を「宇崎ちゃんは幼い顔でおっぱいが大きく描かれている」と要約するのは正しいのだろうか。


あえて個別の主張を「簡単」に分割したため要点をとりこぼしてしまったのかというと、そういうわけではない。
江口氏は下記のように「おおきなおっぱい」であること自体を牟田氏が「性的」の基準にしているかのように主張し、それに同意しないと主張している。

私が見るところでは、牟田先生は宇崎ちゃんが過度に性的であることを立証しなければならなかった、あるいは、少なくとも自分で宇崎ちゃんは過度に性的であるということを主張しなければならなかった。

宇崎ちゃんは魅力的なおっぱいのでかい女子なので「性的」であるとしても「過度に」性的であるっていうのは過度に魅力的であるのか過度におっぱいがでかいのか、とかそういう話になります。

a. おおきなおっぱいは過度に性的である
b. 宇崎ちゃんはおっぱいが大きい
c. それゆえ宇崎ちゃんは過度に性的である

まあこういうことになるのかもしれませんが、この場合多くのひとはbは認めると思うけどaは認めないと思う。私は同意しません。同意しませんよ!ははは。するとまた別の論証が必要になるわけです。
とりあえず牟田先生は「幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調」している描写は過度に性的だとか女性を性的対象物として描いているとかそういうことをもっときちんと言ってくれればよかったのだろうと思いますが、あれが過度に性的だとか性的対象物だとかというのはかなり議論の余地があるように見えて、「明らかだ」というほどではないように思います。

あらためて下線つきで「幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調」と正確に引用しているのに、それと自身の要約では意味が異なっていることを江口氏は本当に気づいていないのだろうか。
まさか江口氏は、研究室でも牟田氏が「おきなおっぱいは過度に性的である」と主張したというレベルの解釈や要約をおこなっているのだろうか。


もし体型だけを「性的」の判断基準とする江口理論*3が正しければ、同じモデルを撮影した写真は、その「性的」な度合いはすべて同じになってしまう。どのようなファッションでどのようなポーズをどのようなレイアウトで切りとっても。
もちろん牟田氏は江口氏のような単純さで「巨大といってもいいような乳房」そのものが「性的」だとは表現していない。引用されているとおり、「強調」している絵だという評価をくだしている。
牟田氏の「明らかだ」という主張に疑問をぶつけたいなら、キャラクターの設定意図は無視するとしても、絵として「強調」されているか、そしてそれが「過度」といえるかという議論もしなければならなかった。


そこで論評の対象となった献血ポスターだが、下記の単行本表紙*4と同じ絵素材に、台詞などを足したものだ。

宇崎ちゃんは遊びたい! 3 (ドラゴンコミックスエイジ)

宇崎ちゃんは遊びたい! 3 (ドラゴンコミックスエイジ)

背筋をそらせた姿勢のウエストショットで、わかりやすく乳房を中央近くに配置。なおかつスイーツや腕で乳房が隠れずに、白地が抜けて体型がはっきりわかる角度から切りとっている。
身体の中央に線をとおし、左右に乳房がわかれていることがわかる*5。胸部以外の布地に多くのシワを入れて*6、線の少ない胸部と顔面がコントラストで浮かびあがる。
どのように見ても「おおきなおっぱい」という女性の体形そのものを素材として提示した設定画などではない。「おおきなおっぱい」という体型しか情報がない絵のように評することは、むしろ作者に失礼だろう。


そもそも、どれほど無造作に描かれたような絵であっても、そこには必ず演出があるものだ。
煙を描くのも政治的 - 法華狼の日記
概念そのものを映しだした絵など、描こうとしてもまず描けるものではない。たとえ実物を素材とする写真や映像でも、それが何の修正をほどこさない定点カメラによる撮影であっても、映しだされたものは被写体のすべてではなく、どうしても編集や作為がくわわるものだ。
文章でも、単語ひとつひとつの選択からかかりうけの順序などで、さまざまな意味がこめられていく。なのに江口氏はエントリで「宇崎ちゃん」と表記するばかりで、それが作品を指すのかキャラクターを指すのかもわかりにくい。せいぜい「宇崎ちゃんポスター」と献血ポスターを区別するぐらい。
哲学や倫理学を専門的に研究している江口氏だが、素人目には言葉のあつかいが無造作にすぎる。ブログであっても、誰かを批判する時くらいは、もう少していねいにやってほしい。

*1:「宇崎ちゃん」献血ポスターはなぜ問題か…「女性差別」から考える(牟田 和恵) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)

*2:たとえば牟田氏は米国人男性が「過度に性的な絵で、赤十字のポスターとしてふさわしくない」と発信したと書いており、その男性が「宇崎ちゃん」そのものを過度に性的だと評したかはわからない。

*3:江口氏自身は違う基準を持っていると釈明するかもしれないが、ここでは江口氏のエントリで論じられた範囲について要約している。

*4:ちなみに表紙だけの演出として、タイトルの文字が髪にはかかっているのに乳房にはかからず、星マークが乳房に当たったかのような演出がほどこされている。これは一巻目二巻目も同様の演出がなされている。なお、こうした表紙の演出は漫画家本人ではなく、編集やデザイナーの意図によることも多い。彩色もしばしば漫画家ではなく別スタッフがしあげていることがあり、質感や量感などは必ずしも漫画家の技術や意図によるものではない。

*5:乳房の大きな体型向けの衣服と、いわゆる「乳袋」の違いは、乳房にひきずられずに下乳をしぼって腰を細く見せるか、乳房そのもののかたちをわかりやすく見せるかが大きいのではないだろうか。

*6:リアリティを出すなら、もっと左右の張りでシワが横に入るだろう。