法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

雑誌『映画芸術』が映画からアニメを除外したことを、実写邦画全体がアニメと対立したと考えるべきではない

まず『映画芸術』がアニメを除外する理由だが、映画とはカメラの前で俳優が演じることであり、二度と同じ演技にならない一回性が重要だという。
雑誌「映画芸術」がベスト映画から「アニメ」を除外した - Togetter

なるほど、俳優の身体性を重視するとか、偶然性を評価したいとか、それぞれの雑誌なりの方向性を打ち出すことは自由だろう。この定義ならば『コングレス未来学会議』*1のような実写とアニメを融合させた作品は、たぶん映画としてあつかうのだろう。

しかし一般的な実写映画は、何テイクもの芝居を撮影して編集するものだ。試写後の追加撮影やディレクターズカットなどで、異なる演技を一般的な観客が見ることもある。演技の一回性を最重視するならば、映画は演劇の上演ひとつひとつに劣るしかない。
また、作り手のコントロールを外れていくことを映画の醍醐味とする意見もわかる。アニメが原則として画面全体に人の手が入っている表現であることも事実だろう。しかし手描き作画にしても完全な計算だけで作れるわけではないし、デジタルによる映像制作も機械の計算で成り立つからこそ人間のコントロールをしばしば外れる。
そもそも集団作業である現在の一般的なアニメで、ひとりが完全に作品をコントロールことは不可能に近い。ひとりの作家が全体をコントロールできるのは、ごく一部のアートアニメくらいだろう。
それとも、作り手のコントロールを人間の作為という意味で使っているのだろうか。ならば撮影を一回に制限しようとも、俳優が演技をすること自体がコントロールでしかない*2。そこでコントロールされない映画を求める願いは、一部のドキュメンタリーでしかかなえられないだろう*3


このように『映画芸術』の定義にさまざまな疑問がぶつけられるのは当然として、あたかも実写邦画を代表する存在のように見なす意見が多いのは、相手を見誤っていると思う。
たとえるなら『けものフレンズ』を視聴して、最近のアニメは少人数による3DCG制作が主流と考えるようなものだ。あるいは山本寛監督の発言を見て、アニメ業界の総意と理解するようなもの。
それは未来の先取りであるかもしれないし、ひとつの象徴的な事例かもしれないが、いくらヒットしたとしても一作品や一監督だけで現状をあらわす平均を見いだすべきではない。
映画芸術』も老舗の一雑誌にすぎず、実写邦画界の主流をしめるとまではいかない。


それどころか『映画芸術』は特殊な偏狭ぶりで知られていて、その矛先は実写邦画にも向けられてきた。いかにも同時代の人気を集めるような娯楽作だけでなく、しばしばマイナー作品もワーストに選んできた。
たとえばアカデミー外国映画賞を受けた『おくりびと』を2008年のワースト1に選んだことで話題となった。
2008年日本映画ベストテン&ワーストテン発表!: 映画芸術

ベストテン
1位 『ノン子36歳(家事手伝い)』 熊切和嘉監督
2位 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』 若松孝二監督
3位 『接吻』 万田邦敏監督
4位 『トウキョウソナタ黒沢清監督
5位 『人のセックスを笑うな井口奈己監督
5位 『PASSION』 濱口竜介監督
7位 『闇の子供たち阪本順治監督
8位 『カメレオン』 阪本順治監督
9位 『石内尋常高等小学校 花は散れども』 新藤兼人監督
10位 『きみの友だち』 廣木隆一監督


ワーストテン
1位 『おくりびと滝田洋二郎監督
2位 『少林少女』 本広克行監督
3位 『ザ・マジックアワー三谷幸喜監督
3位 『私は貝になりたい福澤克雄監督
5位 『トウキョウソナタ黒沢清監督
6位 『アキレスと亀北野武監督
6位 『七夜待〈ななよまち〉』 河瀬直美監督
8位 『歩いても 歩いても是枝裕和監督
8位 『クライマーズ・ハイ原田眞人監督
10位 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』 若松孝二監督

つまり今回の除外は、真っ先にアニメが槍玉にあがったというわけではない。もともとの偏狭さがついにアニメにまでおよんだ、という理解が正しいだろう。


また、この2008年のランキングは、映画評論家の柳下毅一郎からも採点方法による「コントロール」への厳しい批判もあった。
映画芸術ベスト&ワースト10: 映画評論家緊張日記

映芸ベスト10がベスト点からワースト点を引く特異な採点方法を採用しているのはご存じだろう。

この採点方法だけならば悪いとは思わない。誰もが見たメジャー作品ばかりが上位となり、見る機会が少なかったマイナー作品が埋もれるという、投票企画につきまとう問題を防ぐ効果はあるだろう。
しかし全体の順位を操作しやすいという問題が出てくる。もちろんどのような形式でも全体の順位を意識して投票されることは防げないわけだが、それが反映されやすいことには注意が必要だ。

ぼくは今年のベスト邦画は「実録・連合赤軍」であり、これを一位にするのが「映画芸術」の義務だろうと思っていた。そのためなら少々の操作も許されるだろう。しかしこれは酷すぎる。


実録・連合赤軍」のマイナス点は
荒井晴彦 -10 映芸ダイアリーズ -10 岡本安正 -5 藤元洋子 -5 中島雄人 -3
「接吻」
荒井晴彦 -10 寺脇研 -5 山下絵里 -5
トウキョウソナタ
荒井晴彦 -10 藤元洋子 -10 寺脇研 -10 映芸ダイアリーズ -9 中島雄人 -5

つまりベストテン上位にランキングするような作品を、ことごとく編集長や公式ブログが最低評価して、順位を下げていたわけだ。
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を1位に選ぶことが必要かはともかくとして*4、雑誌関係者の動きに疑問をおぼえることは理解できる。

これじゃあ荒井晴彦にとって、熊切なら安心して褒められる=嫉妬を感じず、上から目線で見られる相手だって言われてるも同然じゃないか。実際には熊切監督に対しても侮辱を働いてるんだってことを、映芸の人たちはわかっているのか?


この柳下批判に対して、映芸ダイアリーズ側から座談会での反論があった。
いくつか部分的には理解できるところもあるのだが、採点方法を考慮すると致命的な発言がある。
http://eigageijutsu.com/article/119360741.html

ベストに入れるにしても上位は嫌だなと。9位とか10位ぐらいじゃないのと言ったら、その位置はなにか違うんじゃないかという意見が出た。やはり2008年最大の注目作であることには間違いから。そこで少し話が煮詰まったんですよ。ベストにしてもどこに置こうかと。そしたら、ベストの下位に置くぐらいならワーストの上位に入れましょうという意見が出た。

僕は最初、ベストの1位とワーストの1位の両方に挙げるとか、ベストの10位もワースト10位も『実録・連合赤軍』にするというのはどうかと提案してました。でも、それじゃあ相殺されて意味がない、何も主張したことにならないという意見が多くてボツになったんですよね。

そういう流れの中で『実録・連合赤軍』というビッグタイトルに見合う位置はどこなんだろうと話し合ううちにワースト1位にするという案が出てきた。

ワースト1位にするというのは、リスペクトがあるからなんですよ。ベストの10位に入れるよりは、ワーストの1位に入れるほうが我々の敬意が反映されるだろうという。

この映芸ダイアリーズのメンバーが選んだランキングがそのまま雑誌のランキングになるなら、これはこれで筋がとおっている。
しかし現実には、ワーストに反映され、ベスト順位をひきさげる結果となった。ワースト単独で投票することは、まさに採点方法によってベスト票を「相殺」するだけなのだ。賛否がわかれる作品を除外していく採点形式において、リスペクトの意図でワースト票を投じることは逆効果でしかない。
そもそも『おくりびと』の評価はさておいても、たとえば『少林少女』のワーストはリスペクトという解釈が可能だろうか。実際に投票したモルモット吉田は、座談会へ疑問をていしている。
「映芸ダイアリーズ座談会 柳下毅一郎氏のブログ発言から、ベストテン&ワーストテンを考える」 - 映画をめぐる怠惰な日常2

今回参加させていただいて『少林少女』をワースト1に選んでいる私はどうなるんだ?『少林少女』は〈批判や批評するに値する力作〉でも何でもないただただ〈最低映画〉だと思ったし、〈リスペクト〉しようもない。ベストの10位に私が入れた『かぞくのひけつ』を、ワースト1位に移動させて、果たして〈敬意が反映される〉かどうか。読む人は、あーつまんない映画なのねと誤解するのではないか。

*1:まさに俳優の身体性が映画から失われていくことがテーマとなっている。それをウェルメイドに描いた前半の実写は良かったのだが、後半のアニメはもっと技術やデザインの多様性がほしかった。

*2:映画芸術』の荒井晴彦編集長は脚本家としてキャリアがあるが、その立場ではむしろコントロールを外れることに不快感をもっていた。たとえば脚本家・荒井晴彦の特集上映が大阪で開催、ロマンポルノや監督作など11本 - 映画ナタリーで、『時代屋の女房』について「監督の森崎東が無断でシナリオを改変したため荒井がいまだに鑑賞していない」という有名な逸話が引いてある。

*3:もちろんドキュメンタリーでも被写体が演技をすることはあるし、編集という作為はどうしても入りこむ。

*4:たしかに『CURE』の洗脳シーンが延々続くかのような閉鎖環境ホラーとして素晴らしかったし、それを脱しながら再び自ら閉鎖環境に陥るという構成もよくできていた。