法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

東映・動画・手塚・労働・運動・りんたろう

「WEBアニメスタイル」で有名なスタジオ雄が編集し、2009年12月にキネマ旬報社から出版された『PLUS MADHOUSE 4 りんたろう』という書籍がある。アニメ制作会社マッドハウスに関係する監督をとりあげたシリーズの一冊で、さほど頁数は多くないが、代表作の絵コンテが部分掲載されていたり、りんたろう監督*1本人はもちろん、関係者からも証言を引き出したりと、監督個人の作家性からアニメ史でになった役割まで簡潔に記していく。
そして、その前半に掲載されている監督ロングインタビューに、手塚治虫のアニメ・ダンピング - 法華狼の日記で紹介した杉井ギサブロー監督の発言を別角度から補完する内容があった。
手塚治虫虫プロへ行った時に高い給料がしはらわれた理由や、当時のアニメ業界における労働環境、さらにはアニメと社会運動の繋がりをうかがわせる、貴重な証言だ。


いくつかのCM制作会社でアニメに関わった後、監督は彩色を仕上げる役職として、東映動画に採用される。
女性スタッフが多い仕上げ職におけるチーフを任され、順調にアニメーターの社内試験も通って動画になれた。月岡貞夫杉井ギサブローとはこのころ友人となった*2。しかしアニメーターとしての技術力に限界を感じ、監督職を希望するようになる。
そして意を決して東映動画演出部の部屋へ入ったものの、白川大作監督に断られてしまう……*3

 要するに、当時の東映動画では、大学を卒業して、東映本社に正社員として入らないと演出部に入れなかった。僕や杉井ギサブローは、東映動画が雇った臨時採用だった。そう言われて、諦めたよ。

 遊びまくったといっても、家賃を払うと昼飯代が出なかったんだよ。月給が5千円くらいだったからね。大卒(の社員の給料)が1万2千円だったかな。差が歴然としてるでしょ。

演出家の道を諦めた監督達は、もともと社内のブラックリストに上がっていたそうだが、よりいっそう遊ぶようになっていく。給料の前貸しとして出された社員食堂の食券を、煙草代を捻出するため売ったりもしていたそうだ。
そうして欲求不満をいだく中で、そのはけ口を求めた監督は、いかにも当時の青年らしく労働運動へ関わっていく。1960年代の東映動画における労働運動と、安保闘争に肌でふれた体験が語られる*4

それから60年安保があったんだ。東映動画でも、労働組合を作ろうという動きがあったんだよね。確か、その前にも同じような動きがあって、それはバレて潰されちゃっているんだ。それを体験しているから、もっと慎重にやろうという事だった。赤穂浪士の討ち入りみたいに、蕎麦屋の2階に集まって相談をしていた。赤穂浪士みたいに格好良くはないけどね。みんな、汚い格好していたから(笑)。
 だけど、ある日、会社に行ったら、ロッカーが連ねられていて中に入れなくなっていた。前の日から会社の中に委員長、副委員長がいて、閉じ込められてしまっている。差し入れをしなくちゃいけないのに、ガードされていて、中に入れない。そこで、月岡貞夫がマシラ(猿)のように塀を駆け上がって中に入って、連中におにぎりを渡してきた。まあ、とにかくロックアウトが3日か4日続いたかな。
 その前後に、60年代安保があって国会議事堂が大変な騒ぎになっていた。映画関連だと、映画演劇労働組合連合会――映演総連というのがあって、それに行ってくれと言われて参加したよ。日比谷公園に集合して、僕はでかい旗を持たされたけれどね。それで国会議事堂まで行進して。全共闘が国会議事堂を取り巻いていてね。僕の100mか200m後ろに、トラックが入ってきて、飛び降りた連中が釘を仕込んである角材を振り回すんだ。

監督はこの時に全共闘と知り合いになったという。

 組合ができると、団交ってのが始まるよね。そうなると、組合がトカゲの尻尾切りを始めるわけ。つまり、会社側から、ブラックリストに上がっている連中を組合の方でなんとかしなさい。そうしなければ、団体交渉には応じないと言われる。今度は仕事仲間から「お前、ちゃんとしてくれないと困るよ」って言われるんだよね。それで杉井ギサブローが最初に虫プロに行ったのかな。僕も、手塚さんに会った時に「アニメーションのスタジオを作りたいから、是非来てください」と言われて、すぐに行く気になった。そのまま東映にいても首を切られるだけだったから。

権利を勝ち取るための運動が、折衝や妥協をきっかけとして内部の対立を生み、やがて運動からも切り捨てられる者が出てくることは、社会運動では珍しくない。妥協する前よりも激しい対立を生む場合もあることを思えば、監督の口ぶりから考えて、まだしも穏和なケースだったかもしれないと思う。
前述したようにチーフ職にありながら低賃金で働かされ、演出の道も閉ざされていた監督は、必ずしも熱心な労働者ではなかった。演出になれなかったからではなく労働組合の関係で東映を離れたのかと問うインタビュアーに対し、監督は自身の運動は成り行きや欲求不満によるもので、全共闘ほど真剣ではないと答えている。しかし、労働運動は収入のためだけではなく仕事への不満全般に対しても行われるものであり、監督のかかわりもまた当事者のそれと考えていいと思う。


そして時期を前後するが、1960年制作の東映動画作品『西遊記』で監督は手塚治虫と出会っていた。東映を出て虫プロで働くようになったのは自然な流れだったとは本人の弁だ。そして以前に杉井監督も証言していたように、一気に給料が上がることとなった*5

その頃の虫プロダクションは収入がなくて、全員が手塚さんの原稿料で食べていたんだ。僕なんか、東映を辞める時の給料が8千円だったかな。それが、手塚さんのところに行ったら、2万1千円だからね。大きいよ、この差は。最初に手塚さんが「いくら欲しいですか」と言ってくれて、僕が「いや、僕は……」と遠慮していたら、「じゃあ、2万1千円はどうでしょう?」って。

日本初の連続TVアニメ『鉄腕アトム』を制作する前のことだ。『鉄腕アトム』は現在では制作するほど赤字になるダンピングの象徴であるかのように扱われているが、虫プロ側にしてみればそれでも収入がないよりは良かったのだろう。作品そのもので収益が上げられなくても、関連グッズで利益をえていたのも有名な話だ。スポンサーだった明治製菓もマーブルチョコレートの売り上げを伸ばしたという*6


一連の監督発言によって、単に手塚治虫が高給でスタッフを引き抜いたわけではなく、その役職に応じた給料を出す形であったらしいことがわかる。後に監督をふくむ虫プロ出身者が活躍した時代を思えば、手塚治虫のアニメに対する功績も一面では確かに存在したのだと思う。
逆に、当時から大手だった東映もスタッフへ充分な労働環境を与えていたとはいいがたいようだ。労働運動等をへて自らスタッフを放出した一面があったことは確かだろう。
監督の発言を読んで、やはりアニメの労働環境についての責任を手塚治虫一人へ負わせるべきではないと思えてくる。そして、労働組合で活動していたことが有名な宮崎駿学生運動に深く関わっていた安彦良和といった人々だけでなく、現在では映像表現ばかり語られがちな監督もまた時代とよりそって作品を作ってきたのだと感じさせられた。


やがて監督は原画を描きながら『鉄腕アトム』26話「アトラスの巻」で演出デビュー。演出家が原画も担当せざるをえない制作状況だったためか、トキワ荘の漫画家達が下請けした伝説の34話「ミドロが沼の巻」*7の手直しのような仕事も行った。
そうして虫プロの演出家として腕をふるうようになった時期にも、監督は労働運動と少しばかりかかわりを持った。
1969年からフジテレビ系列で放映されたTVアニメ『ムーミン』が、原作者の意向で東京ムービー*8から虫プロへ制作会社を移した時のこと。チーフディレクターをつとめながら、監督はスタッフ不足*9や自身の感性と異なる作風に悩みつつ、探りながら作っていったという。スポンサーのカルピスからは「アットホーム」な作品をと依頼され、色々な人にシナリオを作ってもらったが、決まりきった内容のものしかあがらなかった。そうして悶々としている時、虫プロ文芸部へ高坂進が入ってきて『ムーミン』の担当となった。高坂進は虫プロ以前に『日本読書新聞*10にいたという*11

彼と話してると面白いんだよ。全共闘の話とか、前衛的な映画の話とかね。それで彼に「アイディアを出せ」と言ったんだ。つまり、アットホームといっても、誰にでも考えられる話ではなくて、家族ってものを別の視点で見せるようなドラマを作れるようなやつはいないか、と言ったんだ。そうしたら「いますよ。任せてください」と言うんだ。
 そこで出てきたのが、若松孝二若松プロダクション。その頃の若松プロは政治色の強いピンク映画をバンバン撮っていた。高坂が紹介してくれたのが、そこにいた沖島勲さんだった。会って話をしたら、僕と歳も同じだったし、話も合った。「『ムーミン』で4回に1回くらい視点を変えたホームドラマを入れて、抵抗してきたいんだ」と説明したら、面白がってくれた。

沖島勲は、アニメ界において後に『まんが日本昔ばなし』でメインライターとして活躍した。近年もアート系SF映画『一万年、後....。』を監督したりと精力的に活動している。
そして沖島は1人では間に合わないといい、共作希望者として栗田邦夫というドキュメンタリストを監督に紹介。さらに自分達はピンク映画を撮っているからと、名前を隠すように沖屋栗八という共作者名を使うことにした。彼らが最初に手がけた脚本は評判がよく、電通の人間から誰が書いたのか聞かれ、ごまかさざるをえなかったとは監督の弁。監督自身はムーミンが物置で靴を見つけて嗅ぐ場面から始まる第35話「パパの古い靴」が、「狙いが面白くて、新鮮」と特に好きらしい。
さらに監督は沖島と同じ日大出の足立正生にも脚本をたのんだが、「『ムーミン』は保守反動だから、俺はやらない」と断られたという。「まあ、そうだろうなとは思った」とは監督の弁。そして足立は後に赤軍へ入った。ともかく新左翼出身の作家が『ムーミン』にかかわり、自分の思いに引き寄せた回を作っていった。
ちなみに『ムーミン』自体は当時のフジテレビでゴールデンタイムのアニメとしては極めて低い10%前後を推移したが、単独で提供していたカルピスの意向で存続することができた。当時は贅沢品だったカルピスを中元や歳暮で贈ってもらい、作品制作中は飲み放題だったという。そして監督は初めて女子大生からファンレターをもらった*12

スナフキンのファンがいたんだよ。みんな、本当に女子大生ばかりだった。

大人の視聴者から制作者が注目されるような作品を手がける、そういう時代を監督が迎えた時、新しいタイプの演出助手が集まってきた。

みんな、六大学とかを出ていて、早稲田の政治経済部のやつなんかは弁が立った。そいつ以外は映研出身でね。ある日、そいつらが改まって「りんさん、お話があるんですけど」と言うんだ。何かと思ったら「りんたろうさんにとって『ムーミン』とはなんですか」と言うんだ。あいつらが言いそうな事だよね。それで「ただ食うためのものだよ」と言ったら、「それだけですか?」って。当時、三里塚闘争についてまとめた本がベストセラーになっていてね。映画青年とか、TVで仕事している連中は大抵読んでいた。そういうのを読むと口が達者になるよね。それで「りんさんにとっての『ムーミン』とは」なんて言い出すんだけど、それで「ただ食うためのもの」とか言われたら、彼らとしてはコケるしかない(笑)。「お前ら、何を考えているんだよ」と言ってやった。面白かったね。その連中は、脚本家になったり、ドキュメンタリーの分野に行ったりしたらしい。

監督は彼らの問いをあしらったが、必ずしも社会運動へ反感を持っていたわけではないらしい。学生運動をやっていた彼らの1人は新宿騒乱*13で前歯を2本折ったりしたが、それとは別個に監督も報道を見て現場へ向かったらしい。

僕は虫プロで何かの絵コンテを描いていた。TVをつけたら、それを報じていてね。「絵コンテなんか描いている場合じゃない!」と思って、電車に乗って新宿に向かったんだところが高田馬場だったかな、刑事が乗ってきて連れ出されたの。その頃、僕は長髪だったんだよ。

当時は男の長髪が反体制の証だった。ちなみに現在の監督は短く刈った頭髪が印象的。
警察に連行された監督は、アニメ制作していることを伝えたという*14

警察に引っ張られていったら、周りは似たようなやつばかりで、チェックされていた。僕は「手塚治虫のところでアニメーションをやっています」と言って、すぐに釈放されたよ。結局、新宿騒乱には間に合わなかったけどね。自分でもいい加減だと思うよ。別に虫プロで絵コンテを描いていればいいのに「こんなのを描いている場合じゃないよ!」なんて思って。

個人的には『ドラえもん』の脚本家が警察に呼びとめられた時、ドラえもんを制作していると応えると快く解放された逸話を思い出した*15
そして監督は時代の「渦中の端っこ」で、何かあれば新宿へ行っていた当時を懐かしげに語った*16

若気の至りというかさ。いや、全共闘の連中にシンパシーみたいなものを感じていたせいかもしれないよね。60年代に、僕らはもの凄い経験をした。(新宿で)横尾忠則が裸で車に絵を描いたりとか、前衛舞踏で女性が白ふんどし一丁になったり、ムカデみたいに歩くパフォーマンスがあったり。寺山修司がいて、唐十郎がいて、土方巽がいて。芸術という観点で見ても面白い時代だった。そんな時代に「アングラだ」なんて言いながら、僕は「♪ねえ、ムーミン」なんてやっていた。

ただし監督は全てを思い出に終わらせたとは、私は思わない。
たとえば1981年に監督した映画『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』。やりきった作品の続編を作るよう不本意にも指示され、しかたなく1作目から変えようと相談した松本零士から「戦禍」という主題を示唆され、男臭くも暗いトーンを貫くことにした監督は語っている。しかしパルチザンに題をとった重苦しい物語に、反戦運動の記憶が反映されていたことも確かだと思う。
さらに2001年に監督した映画『METROPOLIS』。手塚治虫の原作マンガや、その基となったフリッツ=ラング監督映画からし階級闘争が主題だ。さらに監督が手がけたアニメ映画では*17、レトロな世界観を描くためでもあったろうが、武装蜂起を主導した革命家の壁にはチェ・ゲバラ肖像画が張られ、反体制運動の具体性を増している。レイ・チャールズの歌も印象的に引いていた*18
あまり作家性を物語に感じさせない監督ではあるが、やはり全共闘から学生運動へ移ろう時代をすごした経験は、作品のいしずえになっているのではないだろうか。


それでは、少しばかりアニメ業界の話に戻って簡単に監督の現在までを紹介し、話を終えたい。
ムーミン』の後に監督は虫プロをはなれたが、時期を同じくして倒産したことを思うと賢明な判断だったといえる。虫プロ倒産については、似た名称の会社がつぶれた情報と混同されたため倒産が早まったという説もあるが、当時を思い出す監督の言葉は純粋に経営難であったという内容だ*19

数字の上だけでいけば、もう、とっくに倒産してるんだよね。あの辺から、虫プロがぼろぼろと瓦解していく。

300人ほどのスタッフを抱えていた虫プロでは『ハレンチ学園』等を手がける企画も浮かんでいたが、同時に手塚の会社にはそぐわないという外部の視線もあって頓挫したりしていた。それでも会社を経営するためには『あしたのジョー』や『ムーミン』を手がけなければならなかった。

みんながどんどん抜けていったけど、僕はギリギリまで虫プロに残った。虫プロには身分証明証ってのがあったのね。それに番号が振ってあって、上が抜けていくと番号が繰り上がっていくんだ。それで、虫プロを辞める時に身分証明証を返したら、僕は2番だった。1番は社長の川畑栄一さん。
 僕が虫プロに残っていたのは、まだ何か――という気持ちがどこかにあったんだよね。さっき言ったような、手塚治虫に対する錯綜した想いもあったろうし、他へ行ってもしょうがないな、というのもあったし。それで、なんとなく最後の頃まで残った。強い遺志があって残ったんじゃないと思うんだよね。

そして虫プロを去った監督は、友人の田代敦巳が中心になって作ったアニメ会社グループ・タックに誘われていった。ここでもまた杉井ギサブローが先にいた。このグループ・タックこそが先述した『まんが日本昔ばなし』を元請け制作した会社で、沖島勲がなぜメインライターとなったかの背景事情がうかがえる。もちろん『まんが日本昔ばなし』は監督も演出家として参加し、近年に再放送作品として選ばれた「雪女」等を手がけた。
しかし、2年ほど時期は前後するが西崎義展プロデューサーが登場し、虫プロ最後の作品となった『ワンサくん』の仕事をグループ・タックへ持ってきた。田代との話し合いの末、『ワンサくん』の仕事を引き受けないことにした監督は徐々にグループ・タックからも離れて、フリーの仕事をしながら古巣の東映でTVアニメや劇場アニメを手がけ、さらに虫プロの後継であるもう一つの会社マッドハウスに制作の場を移して角川春樹主導のアニメ映画で名声と作風を固めていった。

*1:以下、監督経験のない時期の記述もふくめて「監督」と略す。

*2:ちなみに「りんたろう」という名義は、29頁の監督発言によると「りんちゃん」と呼ばれるようになった後で入社後の月岡貞夫によって名づけられたという。しかし167〜168頁の杉井ギサブローインタビューによると、あくまで杉井発案のあだ名であって月岡入社以前から定着していたともある。この例から見ても、記憶の改変による事実との差異が生まれている可能性は証言全般で考慮する必要もあるだろう。

*3:29頁。

*4:30〜31頁。

*5:32頁。

*6:34頁。

*7:ちなみに、漫画家達がカットごと別々に担当して個性を出しすぎてしまったとされ、一時期は封印された回だった。しかし監督の証言から、実際は虫プロ側で絵コンテ段階から作画まで直されたとわかった。フィルムが見つかった現代ではアトムが場面ごとに違っていると評されているが、インタビュアーは「実際に観ると、噂に聞いていたほど似ていないわけではないですよね」と評し、監督も「いや、他の話だって、ひとつひとつ観ていけば、おかしい画はいっぱいあるって。」と振り返っている。35〜36頁。

*8:現トムスエンタテイメント。たびたび社名を変えるため、単にトムスか東京ムービーと呼ぶことが多い。

*9:同時期に虫プロは大作映画『クレオパトラ』を制作しており、優秀なスタッフをほとんどとられてしまっていた。

*10:戦前からある書評新聞だが、当時は新左翼運動に乗って全盛期を迎えていた。

*11:51頁。

*12:52頁。

*13:この書籍では「'67年8月8日」と記載されているが、それは騒乱の原因となった米軍ジェット燃料積載貨車が衝突爆発事故を起こした日付。騒乱事件自体は1968年10月21日に起きた。監督がどちらの出来事に関わったかは不明。

*14:52〜53頁。

*15:松岡清治『ドラえもん秘密のポケット』205頁。

*16:53頁。

*17:スチームボーイ』で架空の産業革命時代を監督中の大友克洋が脚本を手がけた関係もあるかもしれない。

*18:個人的には、古くから様々な作品で引かれた歌であるため、鳴り響いた瞬間は陳腐さも感じられてしまったが。演奏のみのBGMを使用するなどして、映画のどこかで前振りしておくべきだったと思う。

*19:54頁。