法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『宇宙戦艦ヤマト』キャラクターデザイナー岡迫亘弘氏による、アニメーターの給金にまつわる証言

起源から現代まで、さまざまな日本の特撮作品の新情報をほりおこす『特撮秘宝』。
ジャンルを越境したスタッフの証言からは、特撮中心でない作品の情報も出てくる。今回に読んだvol.3も、興味深い証言が多々あった。

たとえば黒澤明酔いどれ天使』。ピープロうしおそうじが刺青メイクで参加していることは知られていたが、タイトルバックのメタン泡を石鹸水の池にホースを入れて息を吹きこんで作ったことは初めて知った*1。うしおひとりの仕事ではなく、東宝の青年行動隊として高山良策*2達とともにおこなったとのこと。


そして岡迫亘弘氏のインタビューでは、ムックの主軸である特撮だけでなく、東映動画虫プロダクションの黎明期が詳細に語られていた。
TVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』で松本零士原案をキャラクターデザインにまとめた岡迫氏。特撮秘宝に登場したのは『愛の戦士レインボーマン』の特撮キャラクターデザインを担当し、アニメ版で監督に抜擢されたため。キャラクターデザインの意図や、原作者の川内康範氏の人物像など、興味深い証言が次々に飛び出す。


そんな岡迫氏のアニメーターとしての出発点は、東映が本格的なアニメーションを作ろうとした1950年代*3
東映映画部の興行部長だった伯父の中川氏にさそわれたことがきっかけだったという*4。書類選考で1000人から500人にしぼられ、原画の中割りなどの1次2次の試験をとおり、7人の合格者に残った。
中学卒業直前に15歳で入社して、1957年の『かっぱのぱあ太郎』や1958年の『白蛇伝』で2年ほど仕上げを担当した後、動画へ移行。1960年の『西遊記』で手塚治虫と出会う。アニメスタジオをつくりたいと語っていた手塚に、できたら呼んでくださいと岡迫氏がたのんだところ、『鉄腕アトム』制作時に呼ばれたという*5
伯父の中川氏を説得して「将来性のある手塚君ならいいだろう」と許されたが、社内では裏切者あつかいされ、懲戒免職あつかいで退職金も受けとれそうになかった。そこを手塚は退職金分も気前よく払ったという。


そして虫プロダクション東映動画の比較で、杉井ギサブロー証言*6などであった給料の高額化が証言されていた*7

東映動画では、当初は月に5700円、5年後には1万円をもらっていましたが、虫プロに行ったら、いきなり東映動画の3倍の3万円の給料をいただきました。東映動画はできたばかりの会社で何の実績もないお荷物の部署でしたので、撮影所内でもけっこう差別されることも多々ありました。食堂なんかも一番最後でなければ入れないとかね。

やはり手塚治虫個人がアニメーターの立場を弱くしたのではなく、東映自身がアニメーターを放出した一面があったといえるだろう。
当時、東映内でアニメの立場が弱かったらしいことも興味深い。正式に入社した岡迫氏ならではの視点といえるだろう。りんたろう監督は臨時採用あつかいだったためか、東映動画内での格差が証言されていた*8

*1:103頁。

*2:ウルトラマン』シリーズ等で、造形美と安全性が両立した怪獣キグルミを作っていたことで有名。

*3:184頁。本格的なアニメーションとは『白蛇伝』のことと思われる。

*4:ちょっと調べてみたところ、同性の別人でないとすれば、小林多喜二虐殺事件を起こした実行犯らしいという衝撃的なプロフィールが出てきた。虐殺者の戦後をたどる小林多喜二を虐殺した特高 罪に問われたの?に、「中川成夫は、高輪警察署長、築地署長と出世し、東京滝野川区長をつとめ、戦後46年に区長をやめた後、東映取締役興行部長となり『警視庁物語』シリーズなどを全国上映。一方、北区で妻に幼稚園を経営させ、これを背景に64年には東京北区教育委員長になりました」とある。

*5:1960年の虫プロダクション設立から『鉄腕アトム』制作まで2年ほど期間があいているが、インタビューを読むと制作時に呼ばれた印象が強い。

*6:手塚治虫のアニメ・ダンピング - 法華狼の日記

*7:185頁。

*8:東映・動画・手塚・労働・運動・りんたろう - 法華狼の日記