法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『ランド・オブ・ザ・デッド』

死者が蘇り、生者を襲うようになって長い時がたつ。川に守られた中州で生きのこった人々は、高層ビル内で享楽的にすごしている富裕層と、その下働きのように生きているスラム街の住人にわかれていた。
川をわたって物資を調達していたライリーは、裏切った部下の暴走を止めようとする。一方、すべてを高みからながめていたはずの権力者に、静かに破綻の時がおとずれようとしていた……


先ごろ亡くなられた*1ジョージ・A・ロメロ監督による、2005年のホラー映画。自身のゾンビ映画を別スタッフで2004年にリメイクした『ドーン・オブ・ザ・デッド』へ対抗するように、こちらも装甲車でゾンビの群れにたちむかったりする。
ダリオ・アルジェント監督の娘をヒロインに起用したり、巨匠の記念作品的な要素が強いが、あまりゾンビ映画として良い評価を聞かない。たしかに、あいかわらず動きの遅いゾンビ像など、アクション性を増した現代ゾンビの潮流には反している。人物造形も、照明や撮影も古臭さを否めない。高層ビル内で玩具の鳥が鳥籠に入れられている描写など、ちょっと暗喩もわかりやすすぎる。
しかし、ポストアポカリポス映画としては案外と悪くない。この映画においてゾンビは第三の階級に位置づけられ、階級が固定されたディストピアをゆるがす闘争的な存在として描かれる。醜く、動きは遅く、頭も働かず、されど歩みは止めない。もがきつづけ、富裕層がたてこもる高層ビルへとせまっていく。
そうして三勢力が中州で激突し、生者と死者と主人公がそれぞれの道を進んでいく結末には、祝祭的な清々しさすらあった。


この映画については、最近に下記Togetterを興味深く読んだ時にも思い出していた。虚構を現実から乖離させがちな不死性という設定を、社会風刺に利用していたからだ。
フィクションでの不老不死の扱い与太話まとめ - Togetter

上記の指摘は、不死を描いた作品の傾向としてはだいたい正しいとは思う。しかし、そうした傾向を絶対視しないことで、新しい表現へつながることがある。
この映画における主人公たちとゾンビの関係は、そのまま私たちが生きる社会の比喩表現だ。かけがえのない命を、刹那的に今だけを楽しもうとする富豪と、その支配下で消費される労働力に置きかえて。見苦しいはずの不死を、仲間とよりそって障害にあらがいつづけようとする抵抗者に置きかえる。そんなアナロジーが物語から素直に読みとれる。
Togetterのコメント欄でも他のゾンビ作品の変種が言及されている*2。不死性をSF的につきつめて考証しなくても、たとえばオーラルヒストリーの重要性をファンタジックに表現するため、さまざまな歴史を見つづけてきた不死者を肯定する物語などが考えられる。死を否定した設定であっても、コンセプトによっては現実を反映した表現へとむすびつくのだ。

*1:ゾンビ映画の巨匠、ジョージ・ロメロ監督逝く 77歳 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

*2:価値観の変転を賞揚するために不死性を肯定する極論をあつかった物語と解釈すれば、藤子・F・不二雄『流血鬼』なども当てはまるだろう。