法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『キルラキル KILL la KILL』の展開は遅すぎた

一見して密度の高いスピーディな展開のようでいて、同じ場所で足踏みしているような作品だった。
1クール半ば、つまり第6話あたりから感じるようになり、最終回まで見ても遅い印象はぬぐえないままだった。
それが見た目の派手さ古さに反したとっつきやすさやわかりやすさを生んでいたのかもしれないが、残念ながら好みではなかった。


1クール半ばからは同じ敵、同じライバルとの戦いをくりかえすばかり。目先を変えるかと思った関西侵攻では主人公の関与が少なく、ドラマとして動いていない。
強敵と戦うような場面の数は多いが、そうした見せ場は、そもそも基本的にドラマが動かない。強敵と戦いながら同時進行で戦うべき相手が別にいることを示すと、アクションへの没入感をさまたげがち。この作品ではある程度までアクションが終わってから、新しい敵が横入りして中断するというパターンが多かった。アクションをしている時は新しい価値観が示されず、それでいてアクションの印象は全体をとおして似通ってしまう。
異なる価値観の相手と戦うようになるのは、真の敵が鬼龍院皐月ではなく母親の鬼龍院羅暁と明らかになる1回だけ。むしろドラマの密度は普通の2クール作品より少ないくらいだ。


『キルラキル KILL la KILL』第一話 あざみのごとく棘あれば - 法華狼の日記

敵にかなわないと思いつつ生身であらがって、その後に入手した力で敵を討つという段階を踏んでいない。中島かずきシリーズ構成が参加していた『仮面ライダー』シリーズのように、敵の力を奪ったわけでもない。いったん地下に落ちて復活するという、神話の黄泉帰りのような通過儀礼だけで入手する。それが一見した熱血ぶりと違う、不思議な冷たさを生んでいる。

第1話で感じた冷たさは、ドライなスピーディさにつながらず、ただ見せ場と見せ場の過程をショートカットするだけでしかなかった。
わざわざ段取りを描かなければならないというわけではない。アクションでもって解消するべき因縁や葛藤の数量そのものが少ないのだ。だから絶叫する演技に比べて熱さが生まれず、過剰さがない。
物語で示された因縁や葛藤の数量から考えると、この作品の適切な話数は半分、せいぜい1クール13話くらいだろう。