旧姓小和田雅子氏への愛国保守な人々の論評を読み返すと、しみじみとした味わい深さがある。
そのひとつとして、2006年の『週刊ダイヤモンド』に掲載されたオピニオン記事を紹介しよう。
「 はじける笑顔の雅子妃に複雑な思い 皇室はなんのために存在するのか? 」 | 櫻井よしこ オフィシャルサイト
オランダ王室のお出迎えを受けて撮影された写真が各紙の一面を飾った。「はじける笑顔」と見出しを付けた社もあったほど、雅子妃の表情は明るかった。国内で見なれてしまった鬱々とした表情の上に努力して重ねて見せる笑顔とはまったく異質の、心底楽しそうな豪快な笑いがそこにあった。笑顔の妃を見て、十分な休養を願いつつも、心中複雑な思いを抱いた日本人は少なくないだろう。
国民はまず、権威を真の権威ならしめる尊崇の思いを心のうちに育てていきたいものだ。応えて皇室は、ひたすら国民のために祈り、その祈りを実践なさっていただきたいものだ。どちらが欠けても皇室の存在意義は失われる。日本の日本らしさも同様だ。
憂うべきは、その心構えの双方における稀薄さである。雅子妃のご健康を祈りながらも、妃のはじける笑顔から皇室の存在理由としての国民のための祈りを読み取ることが出来ないのは、残念なことに私一人ではあるまい。
戦中の昭和天皇は伊勢神宮で勝利より平和を願ったと『昭和天皇独白録』を根拠に語る前段もバカバカしいが*1、いちいち国民をもちだして雅子氏の笑顔を論評しているのもバカバカしい。
さらに櫻井氏は同年同雑誌のオピニオン記事において、ひとりの女性の人格を皇室という制度がそこねていることを、堂々と主張する。
「 『悠仁親王』ご誕生でも低調な世論 皇室への無関心こそ最大の危機 」 | 櫻井よしこ オフィシャルサイト
次の世代の天皇は、どんなかたちで国民の信頼と尊敬を得、どのように絆を深めていかれるのか。その答えは、少なくとも皇太子ご夫妻からは見えてこない。
ご夫妻について、ご成婚以来記憶に残るのは、ご結婚前の雅子妃のキャリアをどう生かすか、妃の能力を皇室の伝統と責任のなかにどう織り込んでいくかという苦悩である。
その苦悩は、雅子妃のために皇室の伝統をどう変えるかという点から発しているかにさえ見える。対して、皇室の伝統的な役割と存在意義を強調する議論のせめぎ合いが続いてきたのが、ここ数年の現実である。雅子妃と同世代の、仕事を持つ女性たちを含めて幅広い人びとが前者の考えを支持すれば、保守の人びとは日本国の基盤に天皇を戴く皇室があると見なし、雅子妃の“人格”も重要ながら、日本には変えてはならない守るべき大切な価値観があると考える。
今、雅子妃がお元気な笑顔を取り戻されたことはなによりである。だが、合理的な価値観の持ち主である雅子妃が、西欧風の合理精神では測れない皇室の伝統、この国の文明としての皇室のあり方に、どこまで協調していけるのか、あらためて考えざるを得ない。
皇室が非合理的だということをここまで正面から語られると、いっそ清々しい。この記事では皇太子も批判の対象にふくめていることもポイントが高い。
雅子氏は最近に皇太子妃から皇后になったらしいが、さてこうした論評について関係者はどう思っているだろうか。
*1:紹介されている他の資料と普通にてらしあわせれば、『独白録』は後づけの釈明にすぎないと解釈するのが自然だろう。