法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

「奴隷」は、必ずしも支配者が直接的に強制連行で集めたわけではない

たとえば辞書で「奴隷」という言葉を引いてみればわかる。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E5%A5%B4%E9%9A%B7&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=13545900

1 人間としての権利・自由を認められず、他人の私有財産として労働を強制され、また、売買・譲渡の対象ともされた人。古代ではギリシャ・ローマ、近代ではアメリカにみられた。

簡単にいえば、権利が制限され、他者の所有物とされた人々を奴隷と呼ぶ。
給料や休暇が所有者から与えられたとしても、所有物としてあつかわれている限り、奴隷という立場から解放されたとはいえない。
一方で、人身売買こそ、字義から見ても奴隷制そのものだといってよい。


そして奴隷狩りといった、集める段階での暴力的な行為も、辞書には必ずしも特筆されていない。
考えてみれば当然だろう、奴隷を集めることは目的ではなく、基本的には手段だ。強制連行された例は、奴隷が虐げられていた充分な証拠となるが、必要な証拠ではない。
奴隷商人や所有者の立場からしても、自らが手を下さずに集めることができるならば、その手段を選んだ。たとえば奴隷貿易でも、アフリカ大陸の部族間対立を煽るという間接的な手法がとられた。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%8F%B2/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93%E3%81%8B%E3%82%89%E5%90%88%E6%B3%95%E8%B2%BF%E6%98%93%E3%81%B8/

奴隷の捕獲は、ヨーロッパ人が海岸部族に武器、火薬を提供し、内陸部族に戦争をしかけ、その戦争捕虜をヨーロッパ人に引き渡したが、その取引には金銀貨ではなくさまざまなヨーロッパ製品が使われた。

アフリカ人社会のなかにも、海岸部のダオメー、オヨ王国のように、ヨーロッパ人と結託して奴隷狩りに加担し発展した若干の国家があったことを忘れてはならない。

このことはヨーロッパ人を免罪しないし、支配され奴隷にされたアフリカ人をひとまとめにして責任を負わせるべきという結論にも繋がらない。
奴隷制に限らない。植民地政策というものは、現地にあらかじめ存在する民族間や階級間の対立をしばしば利用する。たとえば、ルワンダにおけるフツ族ツチ族の対立もそうだったし、ビルマ少数民族問題も日英が対立をしかけたことが現代まで尾をひいている。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E7%B4%9B%E4%BA%89/

ツチとフツの境界が明確に区分され対立を深めたのは、19〜20世紀ヨーロッパ諸国の植民地政策によるものであり、両者に格差をつけ対立させることによって間接的統治を強化したのであった。

ビルマ西部:ロヒンギャ問題の背景と現実 | ヒューライツ大阪(一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター)

 「イギリスの支配は途中、3年半ほど日本に邪魔されます。日本が1942年−1945年ビルマ全土を軍事的占領したからです。(中略)問題なのは、日本とイギリスがそれぞれに宗教別に地元の人々から構成される軍を作り、戦わせたということです。(中略)両者の軍事的対立は帝国主義イギリスを倒すとか、ファシスト日本を倒すという大目的ではなく、イスラム教対仏教徒の血で血を洗う民族紛争、宗教紛争と化していきました。そして、両者の間に取り返しのつかないトラウマがこの時生じるわけです」(「『ロヒンギャー問題』の歴史的背景」根本 敬・上智大学)。

あらかじめ植民地に対立の芽があったとしても、それを育てて利用した側が免罪されてはならない。利用した側が植民地を非難する材料として持ち出し、支配を正当化することにいたっては、醜悪の極みだ。


もちろん、奴隷狩りという言葉から想起されるよりは穏健的に集めたとしても、それは面倒を避けるためであって、奴隷の権利を守ることが主目的ではなかった。
手間をかけずに集められる手段を選んだにすぎず、安易な手段が使えなければ直接的かつ暴力的に奴隷を集めることもした。非合法化されても、「需要」があれば密貿易が横行した。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93/

19世紀初頭からデンマーク(1802)、イギリス(1807)を皮切りに主要諸国が奴隷貿易廃止に踏み切った。しかし、19世紀に入って飛躍的に砂糖生産を伸ばしたキューバ、コーヒー生産の勃興(ぼっこう)をみたブラジル南部における奴隷需要が密貿易の横行を招いた結果、海軍までも動員したイギリスによる奴隷船の取締りにもかかわらず、奴隷貿易はなお1860年代初頭まで続くことになった。

非合法化への働きかけと、それへの抵抗という歴史を鑑みれば、密貿易は例外などではなく、非人道的な制度の温存ということは明らかだ。同時に、かつて合法を装っていた時代の奴隷制も、人道的なものではなかったことが露呈したといえるだろう。